カーデザインの巨匠(マエストロ)、ジョルジェット・ジウジアーロ氏が日本にやってきた。日本にも多くのファンがいて、国産自動車メーカーも大変お世話になってきたレジェンドだが、さて、ジウジアーロ氏は日本で何を語ったのか。
ジウジアーロが最初に描いたクルマは?
トークショーは、若かった自分にさまざまなプロジェクトを任せてくれた日本という国と日本の自動車メーカーに対する感謝の言葉で始まった。最初に来日したのは、今から60年前の1965年だったという。
画家の家に生まれ育ったジウジアーロ氏は、自身も画家を目指して美術学校に通っていたのだが、フィアットのエンジニアの叔父でもある先生から「自動車の絵を描いてごらん」といわれて描いた卒業制作のイラストが、「チンクエチェント」(フィアット「500」)の設計者であるダンテ・ジアコーサの目に留まり、1955年に弱冠17歳でフィアットのデザインセンターである「チェントロスティーレ」に入社することになった。
1959年には「カロッツェリア・ベルトーネ」からスカウトされる。そこでまず、自分の力を試すために描いたのがアルファロメオ「2000/2600スプリント」のデザインだ。
ジウジアーロ氏はデザインの過程をスケッチを描きながら説明。ペンを手に取ると、あっという間にフロントのライトとフェンダー部分を描いてしまった。
「古くからの自動車デザインは、フロントライトの丸みを帯びた形がタイヤをカバーして、フェンダーになっていた。私はそれを変えたかった。そのために、フェンダーのラインとライトを切り離し、グリルの中にライトを入れて全く独立した造形にした。それが『2000/2600スプリント』で、さらにそれを発展させ、四角いグリルの中にライトを埋め込み、その外側にサイドマーカーを取り付けたのが『ジュリア・スプリントGT』のデザインだった」とジウジアーロ氏。86歳になってもスケッチの腕は全く衰えていないようだ。
ジウジアーロと日本の関係は?
1964年には日本人の企業家・宮川秀之氏と知り合い、東洋工業(現・マツダ)を紹介される。そこでデザインしたのが、「ルーチェ」のプロトタイプである「S8P」だった。会場内のマツダブースにはS8Pが展示してあり、「久々に再開できて大変嬉しかった」という。
1965年には「カロッツェリア・ギア」のチーフデザイナーとなる。そのころ、宮川氏から新たなクライアントとして紹介を受けたのがいすゞ自動車だった。この出会いから「117クーペ」のデザインが生まれる。
1969年には宮川氏らと共に「イタルデザイン」を創立。いすゞ「アッソ・デ・フィオリ」(市販モデルは「ピアッツァ」)をはじめとするさまざまなモデルのデザインを担当した。会場内には「ジョルジェット・ジウジアーロ展 ~ 世界を変えたマエストロ」と題して、彼がデザインした代表的な10台が展示されていた。本連載では今後、その中からいくつかのクルマを紹介していきたい。