核力の謎を解く中間子論で日本人初のノーベル賞を1949年に受賞した湯川秀樹(ゆかわ ひでき、1907~81年)は生涯、一般向けに膨大な講演や執筆を重ねて科学精神の啓蒙に尽くした。湯川自身がこうした活動を楽しんだ感さえある。その最初の一般向け講演が1938(昭和13)年11月2日、徳島市の徳島中学(現・徳島県立城南高校)で生徒たちを相手に行われたことを、原子核理論の大久保茂男(おおくぼ しげお)大阪大学核物理研究センター研究員が新資料を発掘して見いだした。湯川の社会活動の原点を示す発見で、現在盛んになっている出前授業やサイエンスカフェの源流としても注目される。3月9日発行の素粒子論研究電子版に発表した。
この徳島中学の講演については、湯川秀樹が随想「四国の秋」(著作集第7巻)で簡単に触れているが、詳しい内容は未発見だった。大久保茂男さんは、徳島での資料と、京都大学基礎物理学研究所の湯川記念室に所蔵されているファイルボックスをすみずみまで調べ、講演内容が掲載された徳島中学の雑誌「渦の音」50号(39年3月)を探し出した。湯川にとって強い印象が残ったのだろう。目次の「湯川博士講演」の部分を赤鉛筆で長方形に囲み込み、大事に保管していたことがわかる。その2~5ページに、当時の中学生による講演要約が記録されていた。その要約は極めて正確で、湯川が自ら文章を監修したとみられる。
それによると、当時、31歳で大阪大学助教授だった(32歳で京都大学教授になるのは翌年)湯川が中学生向けにわかりやすく、けなげに解説した様子がうかがえる。原子構造に関して、原子核を太陽に、電子を地球などの惑星に例えながら、「10年ほど前に量子力学が起こって、電子の軌道が雲のように広がっている(ことがわかってきた)。物理現象はこの軌道がどのように変わるか、また電子がいくつあるかによって支配される」とやさしい言葉で明確に述べている。最後に「国家では平時でも戦時でも純粋物理学は国力の中の一つであります」と基礎科学の重要性を語り、学業を怠らないよう勧めて締めくくっている。
大久保茂男さんは、1935年の中間子論の提唱後に起きた素粒子論の発展を縦軸に、大阪大学でのゼミなどの研究、当時の新聞の記事も交えて、湯川にとって初の一般向け講演を描き出している。中間子論は日本の学界が突然世界のトップに躍り出たことを意味する金字塔だったが、その評価が当時、世界的に急速に高まっていた。その高揚感の中で、湯川が家族総勢5人で夜行の船で徳島に旅立って、講演した様子が生き生きと再現されている。
湯川に講演を依頼した徳島中学の当時の深井源治(ふかい げんじ)校長(1872~1971年)は戦時中、軍部に抵抗した伝説の人だった。その気骨あふれる教育者魂もうかがえる。湯川の講演がまいた種は徳島に根づいただろうか。同じ四国の高知出身の大久保茂男さんは「講演から76年後の四国の秋、2014年ノーベル物理学賞は四国で育ち、徳島大学出身の中村修二(なかむら しゅうじ)氏の徳島・阿南市での青色発光ダイオード研究に授与されることになった」と結んでいる。
科学史の論文として第一級の報告で、優れた短編小説のように読める。大久保さんは「私も講義を受けた湯川秀樹先生が、科学の一般向け講演のさきがけであったことが今回の資料発見でわかり、現代の研究者にも励みになる。その活動が世に知られる意義はある」と話している。