エビやカニの殻に含まれるキチンは、甲殻類や昆虫など自然界にあふれる生物資源(バイオマス)だが、硬くて分解しにくいため、利用があまり進んでいない。この状況に風穴をあけるような発見が、日本のグループによって成し遂げられた。2種類のキチン分解酵素(キチナーゼのAとB)がキチンの表面を高速で互いに逆走しながら分解している様子の観察に、東京大学大学院農学生命科学研究科の五十嵐圭日子(きよひこ)准教授と新潟大学農学部の渡邉剛志教授らが世界で初めて成功した。
発見は最新の高速原子間力顕微鏡でもたらされた。高速で動きながら機能する酵素の姿を捉えたことは、生化学の教科書に載るような基礎的な発見である。新潟大学の鈴木一史准教授、杉本華幸助教、金沢大学の安藤敏夫教授、内橋貴之准教授、東京大学の鮫島正浩教授らとの共同研究で、6月4日の英オンライン科学誌ネイチャーコミュニケーションズに発表した。研究グループは「キチナーゼを有効に活用すれば、未利用のキチンをバイオマスとして活用できる道が開ける」と期待する。
研究グループは、キチンを栄養源とするSerratia marcescens というバクテリアがキチンを分解するときに使う2 種類の酵素、キチナーゼAとBを使った。このバクテリアと酵素は、新潟大が長年、研究してきた。酵素がキチンを分解する様子は、金沢大が開発した高速原子間力顕微鏡で解析方法も改良して観察した。この顕微鏡は、さまざまな分子を直接観察して、1枚の画像を0.01秒もの速さで撮影でき、分子の動きを刻々と解析できる。
キチンのサンプルには、海洋研究開発機構の無人探査機「ハイパードルフィン」が深海から採取したサツマハオリムシの体の周りの棲管(管状の巣)から調製した結晶性のβキチンを用いた。観察した2種類のキチナーゼがキチンの表面を移動する速度は、キチナーゼAが秒速71nm(ナノメートル、100万分の1mm)、キチナーゼBが秒速47nmだった。しかも、互いに逆方向だった。
キチンを構成している糖分子の長さが1nmであることから判定すると、キチナーゼAは1秒間に71回、キチナーゼBは1秒間に47回も分解していることがわかった。研究グループがこれまでに調べてきた多くのセルロース分解酵素(セルラーゼ)の反応速度が1秒間に10回程度だった結果と比較すると、キチナーゼの分解反応は極めて速いといえる。
さらに、キチナーゼやセルラーゼの長さは約10nmなので、これを車長が5mの自動車として比べると、動く時速はキチナーゼAが130km、キチナーゼBが85km、セルラーゼは18kmに相当する。セルラーゼ分子はセルロース表面で「渋滞」を起こしてしまうことが知られているが、キチナーゼではそのような現象は観察されず、長い分子のキチンの上を高速で双方向に突っ走りながら、効率よく分解するすごい能力があった。
セルラーゼにも2種類あるが、これまで動きが確認されたのは一方向だけ。キナーゼはキチンを分解するドメイン(酵素分子の領域)が逆向きについており、「走行が逆向きではないか」と推測されていたが、今回の観察でこの仮説は裏付けられた。
高速道路を疾走する車のように動くため、キチナーゼの分解活性は極めて高い。これは、セルロースに次いで地球上に豊富に存在する膨大な未利用バイオマスのキチンの活用を考えると、重要な意味を持つ。研究グループは「キチンはこれまでほとんど利用されていなかった。今回の知見を基にキチンの分解酵素を上手に利用できる技術を開発できれば、キチンを新たな資源として利用できる可能性が高まる」と強調している。
研究グループの五十嵐圭日子准教授は「3大学が長年交流・協力して行ってきた共同研究の集大成だ。キチナーゼの移動速度が速かったので、解析も非常に苦労した。2種類のキチナーゼが逆向きに高速走行していることがわかったときには、みんなで大喜びした」と話している。