科学技術振興機構(JST)と東北大学は6月21日、脳の「嗅覚皮質」において、神経細胞の電気信号(パルス)を解読し、嗅いだ匂いの違いがすばやく判別されるメカニズムを解明したと発表した。

成果は、東北大 大学院情報科学研究科の三浦佳二助教、ハーバード大学の内田直滋准教授、チャンパリマウードセンター・フォー・ジ・アンノウンのザハリー・F・マイネン主任研究員らの共同研究グループによるもの。研究はJST課題達成型基礎研究の一環として行われ、その詳細な内容は米国東部時間6月20日付けで米科学雑誌「Neuron」オンライン速報版に掲載された。

研究グループの脳は、神経細胞が電気パルスをやり取りすることによって、0.2~0.3秒という短時間に感覚情報を処理し、行動を制御する能力を持っているが、それが脳内でどのように行われているかはよくわかっていない。

特に、神経活動における情報処理の符号化は、パルスの「タイミング」によるのか、あるいはその「回数」によるのかという問いは神経科学の難問とされてきた。

動物は、1回の呼吸ですばやく匂いを判別できることが知られているが、その基盤となる匂いの情報処理を脳がどう実現しているかはいまだに解明されていない。

脳の中では神経細胞が、電気パルスをやり取りすることによって情報処理が行われていることから、匂いの情報も電気パルスに変換されているはずだ。しかし、刺激の対象を用意することが容易な視覚系の研究に比べて嗅覚系における符号化は、動物に匂いを判別させる実験環境を作ることが難しい点が問題である。

また、脳内奥部にある嗅覚皮質の電気パルスは非常に複雑で、解読には数学的に高度な専門知識が必要なこともあり、これまで十分に調べられてこなかった。生物の最も基本的な感覚の1つである匂いの判別メカニズムは、嗅覚系の入口付近で足踏みし、解明が進んでいなかったのだ。

近年、電気パルスのタイミングが匂い情報の符号化に使われているという興味深い報告がなされた。しかし、この論文を含む多くの先行研究において調べられているのは、鼻内の匂いセンサや、そこから情報が直接伝わる「嗅球」という嗅覚系における「入口」の場所だった(画像1)。

画像1は、嗅覚系における匂い情報の流れの(模式図)。匂い分子(1)は、鼻腔内の「嗅覚受容器」(2)にて検出されて電気パルスへと変換され、嗅球(3)を経由した後、嗅覚皮質(4)へと伝えられる。

画像1。嗅覚系における匂い情報の流れの(模式図)。(L.B.Vosshall、Developmental Cell(2001)より改変)

嗅球よりもさらに奥の場所にある嗅覚皮質において符号化が調べられた研究はほとんどない。匂いを判別するための符号を調べるには、嗅覚皮質から脳で処理した情報の「出口」でもある運動系に向かう電気パルスを調べる必要があった。

三浦助教らは、匂いを判別する課題を行う最中の、ラットの嗅覚皮質(前方梨状皮質)から電気パルスを記録し、応用数学を使って詳細なデータ解析を行った。その結果、次のことが明らかとなった。

1 匂いの種類に対する情報は、電気パルスの本数を用いることで解読できる(画像2)。すなわち、神経細胞は、異なる本数のパルスで応答することにより、匂いの違いを区別していた。

嗅覚皮質の神経細胞は、匂いの吸引開始に顕著な応答を示すので、その際の、各神経細胞の全パルス本数が重要であるということになる。この結果は、嗅球ではパルスのタイミングが匂いの種類を判別する手がかりとなる、という従来の観測とは対照的だった。

画像2は、嗅球と嗅覚皮質における匂いへの応答の違い(模式図)。嗅覚皮質の神経細胞は、呼吸(水色)の開始から一定時間の遅れの後、応答する。その際のパルスの数によって、匂いを区別することが可能である。嗅球ではパルスのタイミングも、匂いの区別に役立つ。

画像2。嗅球と嗅覚皮質における匂いへの応答の違い(模式図)

2 神経細胞の活動には互いに相関がないことが発見された。すなわち、ある細胞が普段より多くのパルスを生成したからといって、その瞬間にほかの細胞も普段より多くのパルスを生成するとは限らないということだ。大脳皮質のほかの場所では、神経細胞の活動は強く相関を持つことが知られているので、嗅覚皮質は特別な符号化を行っているといえる。

また、情報理論の観点から見ると、集団として非常に効率のよい符号化を行っていると考えられるという。事実、100個程度の細胞の電気活動のみから、機械学習のアルゴリズムを用いて、課題中に刺激として用いられた匂いの種類を当てることができた(画像3)。

その正答率は、脳活動を記録されたラット自身が匂いを判別する正答率よりも高いほどだった。さらに、神経細胞の活動が互いに無相関であることの重要性を調べるために、人工的に相関のある活動を作りだすシミュレーションを行うと正答率が大きく損なわれたことから、独立性(=無相関)の重要性が明らかとなった。

画像3は嗅覚皮質の神経細胞の電気パルスのみから機械学習で匂いの種類を当てた時の正答率。黒色は相関のない実データを使用した場合で、黄緑は相関があるシミュレーションでの場合。なお、ラットの行動における課題正答率も点線で示されている。

画像3。嗅覚皮質の神経細胞の電気パルスのみから機械学習で匂いの種類を当てた時の正答率

今回の発見により、嗅覚系の出口に近い嗅覚皮質ではパルスの回数で匂いを符号化していることが判明した。入口に近い嗅球ではパルスのタイミングで符号化していたのと異なっており、この符号化の違いが、脳にとってどのように都合がよいのかということの解明は今後の課題とする。

例えば、パルス回数による符号化は、匂いの記憶や、意思決定の手がかりとして使うために都合がよいという可能性があるという。また、嗅球と嗅覚皮質の間で符号の変換が行われる方法についてもさらに解明が必要だ。

今回、脳における匂い情報の符号化の仕組みが解明されたことで、脳神経活動の詳細なメカニズムの解明に向けて新たな知見を得られたと、三浦助教らはコメント。

さらに、今回の研究はラットを対象にして行われたが、同じほ乳類であるヒトとは高い類似性があると考えられるため、将来的にヒトの嗅覚障害などの治療や人口嗅覚の開発につながるような展開も期待されるとしている。