私は美術に詳しくない。まして評論家でもない。でも今回のニューヨーク滞在中に見た美術展で何が一番、印象的であったか? と聞かれれば迷うことなくグッゲンハイム美術館で07年3月まで開かれていた、「スペイン絵画、エル・グレコからピカソまで」を挙げる。展示の仕方によって同じ絵を集めてもこんなにインパクトが違うか、と感心した。

グッゲンハイムをご存知の方も多いだろう。駐車場ビルのような螺旋のスロープを6層までゆっくり登りながら両面の展示物を鑑賞する。いくつかの常設コーナーを除いて、このほとんどの壁面を使って16世紀から現代のピカソまでスペインの巨匠の作品を一堂に集めた。

美術館が「ニューヨークで初のスペイン絵画の総合的集成」と自慢するだけあって、まず展示絵画数の膨大さに圧倒される。しかし、真の驚きはエル・グレコ、ゴヤ、ダリ、ミロ、ピカソ――と5世紀にわたってスペインが輩出した巨匠の作品に流れる共通性、「歴史の遺伝」を体感出来ることだった。

一般的に、こうした展覧会は作品が描かれた年代順に展示されるのだが、グッゲンハイムは宗教画、肖像画、静物画という15のテーマ別に時制を超えて作品をずらりと並べた。すると一見、似ても似つかわぬように見える作品が世紀を超えて、同じメロディーを奏でだすのだ。好例は、ピカソの「マリーテレース・ワルターとガーランド」(1937年)と、ゴヤの「アブランテス公爵夫人」(1816年)。一見するだけで、ピカソがゴヤをいかに尊敬(模倣?)し、スペイン黄金期の画法を必死に研究したかが分かる。

グッゲンハイムから5~6分の距離にあるノイエギャラリーもいい。ここはグッケンハイムやメトロポリタンとは全くコンセプトが異なる。富豪の自宅を改装したギャラリーに多くの人は入れず、作品も多くはないが、クリムトの「接吻」をソファーに座って何十分でも堪能できる。ロビーのレストランで遅いランチをゆっくり楽しんだのも至福の時だった。

楽しみは尽きないが4月の授業が迫り、現実に引き戻される時が来た。 3月下旬、ニューヨークが雪でなく珍しく小雨交じりの早朝、私はマイケルがレキシントン・アベニューで止めてくれたタクシーに乗り込んだ。肩を叩きあい、「また会おうな」と別れたが、多分そんな機会はないだろうと両方が思っていた。ケネディー空港までの小一時間、私は、この3カ月を咀嚼してみた。

「アメリカの世紀は終わったよ」という人は多い。そうかも知れない。ただ自分の人生を振りかえってみると、それは「アメリカが夢のオートメーション工場」であった時代と重なる。小学校低学年時代は土曜日になると、カバンを放り出し中央線の荻窪駅から立川駅の知人宅に飛んでいった。立川基地にへばりついていると次々飛来する大型輸送機グローブマスターや、F86F戦闘機のジェラルミンの素肌が目をさした。つかの間、青梅街道を疾走するお尻のとんがった青ナンバーのキャデラックの後を追ったこともある。多分そうした「体験と思い出」が、今回、私をこの街に引き寄せたのに違いない。

私はアメリカの何を知っているのだろう?。特派員として4年間ワシントンDCで働いたといっても、あの街はアメリカのあらゆる水準から見て、「異常な街」だ。だからこそ4年に一度の大統領選挙では必ず、反ワシントンDC感情が高まり、『庶民の声をワシントンDCに届けろ!』がスローガンとなる。ワシントンDCで働き、その近郊に住んだことは、「アメリカを知る」という意味ではあまり役に立たなかっただろう。

ニューヨークに住んだのも初めて。しかもその期間は3カ月弱と限られていた。「ニューヨークの何を知っているの?」と面と向かって聞かれたら、力なく、「ほとんど何も」と答えるしかない。しかし居直って言えば、この間の生活、体験、発見は私だけのものだ。

今回、その雑駁な経験をまとめるという冒険に駆られたのは、根っからのニューヨークの下町っ子、ピート・ハミルのこんな言葉に出会ったからだ。「マンハッタンを歩き回るなら、ある意味で心をまっさらにして出発しなくてはならない。なぜならニューヨークは、無垢な目に一番良い姿を見せるから。若かろうと老いていようと歳は関係ない。私たちの豊かな歴史を読んでいればさらに深い体験が出来るが、それは実際に歩くかわりにはならない(雨沢泰訳「マンハッタンを歩く」集英社)。」(了)

『世界の街角から』は、今回で終了します。読者の皆様のご愛読を感謝します。なお本稿は大幅加筆のうえ3月下旬、毎日コミュニケーションズ・マイコミ新書「YouTube民主主義 ~メディア革命が変えるアメリカの近未来~」として発売されます。書店でお手に取って頂ければ幸いです。