僕がマンガ家でデビューしたのは、今から27年前、日本はバブル経済突入! でした。雑誌に応募した作品が賞をとりデビューしました。マンガは小学生から描いていて、主に授業中が創作の時間、読者ターゲットはクラスの友人。仲のよい友人に見せるために、友人を笑わせるために、描いていました。友人が自分のマンガで瀕死の笑いに落ち入る姿が、どれほど嬉しく、創作の原動力になったことか!
マンガ家になることが将来の目標だったけど、青年になる頃にはマンガはアンダーグラウンドなものを少し読むくらいで、商業誌には目も通さず、それより、音楽やデザイン、アート、演劇に興味が移ってしまっていました。ただ、将来のことを考えると、それらでどうやって生活していったらよいのかわからなかったので(フリーが前提)、とりあえず、社会に出る足がかりとしてマンガを描いて応募しようってことになって、それから商業誌を数冊買い込んで、過去のマンガ賞の受賞作品の傾向と対策、雑誌社が好みそうな作品を仕上げて応募しました。昔のような純粋な創作ではなかったけど、雑誌社に認められる、賞をとってデビューすることが目的の創作でした。
デビューしてからは担当編集者にページ数とテーマが与えられ、ネームや下描きにも細かくチェックが入り、人物の髪型にも細かいチェックが入って、なかなか思うようには描かせてもらえない。このシーンは要らないんじゃないかと削除を命ぜられるシーンは、きまって自分が一番思い入れのある描きたいシーンだったり……。
それでも、編集者の意見というのはありがたく、プロのマンガ家という未経験の世界ですから、意見は大いに参考にして、僕はそれに応えられるように何度も描き直しました。それは、友人に見せるためのマンガではなく、雑誌を手にとる読者でもなく、完全に担当編集者(23歳の女性)に向けての創作になり、目の前の編集者の顔色を伺いながらマンガを描く。そのようにして仕上がったマンガは自分で納得できないような内容になっていったけど、担当さんの意見に賭けてみます! と鼻息も荒く、僕なりに彼女の提案に寄り添うようなマンガ制作で、僕はホテルでカンズメにしていただいていました。
ちなみに、時代はバブル突入です。僕は京都に住む大学一年生で、部屋に電話もなかったので、東京の出版社に近くのホテルをとっていただいて、そこで、制作をさせていただいてたんですね。作品が仕上がれば京都に戻って、またしばらくすると呼ばれて東京のホテル。食事もホテル。ホテルで大学の課題をやったり、部屋にテレビも電話もあるので、友人と長電話したり、快適で贅沢な生活。それになんと! アシスタント付き! ヒゲモジャの妻子持ち28歳の男性、僕より10歳も上の人で、ずいぶん気を使いました。売れるかどうかわかんないような新人マンガ家にそこまでの待遇ってのは、バブルだったんだなあと思います。
案の定、ピンとこないテーマで描く作品はどんどんつまらなくなっていきました。 この話続きます。
タナカカツキ
1966年、大阪府出身。18歳でマンガ家デビュー。以後、映像作家、アーティストとしても活躍。マンガ家として『オッス! トン子ちゃん』、『バカドリル』(天久聖一との共著)など作品多数。1995年に、フルCGアニメ『カエルマン』発売。CM、PV、テレビ番組のオープニングなど、様々な映像制作を手がける。映像作品『ALTOVISION』では「After Effects」や「3ds Max」を駆使して、斬新な映像表現に挑んだ。キリンジのアルバム『BUOYANCY』など、CDのアートディレクションも手掛ける。