シミュレータというと、飛行機の操縦訓練に使用するフライト・シミュレータ(厳密にはFFS : Full Flight Simulator)がよく知られている。しかし、他所の業界でもシミュレータ訓練を使用している事例はあり、鉄道業界も例外ではない。

また、博物館などの展示品としても、シミュレータは人気を博している。以前、地下鉄博物館(東京メトロ東西線・葛西駅近く)を訪れたときに、自分は運転するつもりはなかったのだが「せっかく来たのだからやっていけば」と係の方に薦められて、シミュレータを運転してきたことがあった。

鉄道車両をシミュレートする際の特徴

航空機のシミュレーション訓練で使用するFFSは大がかりで、値段も高い。飛行機は三次元運動を行うから、それに合わせてコックピットを6本の油圧シリンダで支えて実際に動かす「モーション装置」を使用する。単に向きが変わるだけでなく、滑走を開始する際の「モゾモゾ感」や、脚上げの際のちょっとした衝撃までちゃんと再現しているのだから、念が入っている。

また、コックピットの窓の外にはビジュアル装置というものがあって、外部の映像を投影している。旅客機のシミュレータだと窓にビジュアル装置を作り付けにするが、戦闘機のシミュレータではコックピットをオープンにして、周囲をドームで囲み、そちらに映像を投影する。

それと比べると、鉄道車両用のシミュレータはシンプルである。モーション装置はないし、ビジュアル装置もシンプルで済む。そもそも鉄道車両の運転操作は基本的に「加速」と「減速」しかないわけで、ハンドルを切る操作すら存在しない一次元の運動である。しかし逆にいえば、加速と減速だけですべてやらなければならないわけだから、そちらの方が難しい部分もありそうだ。

ともあれ、運動の内容がシンプルなので、外部の映像は運転操作に合わせて表示速度を加減すれば済む理屈である。わざわざコンピュータ・グラフィックで生成しなくても、実車で撮影したビデオを速度に合わせて再生する方法でもなんとかなりそうだ。実際、博物館の展示品シミュレータはそうやっている。

しかし、さまざまな環境を再現することを考えると、コンピュータ・グラフィックの方が良いかも知れない。たとえば、悪天候下での運転をシミュレートするような場面がそれだ。ひょっとして、人身事故のシミュレートまでやっている……かどうかは知らないが。

ともあれ、鉄道車両用のシミュレータは、航空機用のシミュレータでいうと、FFSよりもCPT(Cockpit Procedure Trainer)に似ているかも知れない。モーション機能を持たず、操作の訓練に専念しているという点で共通性がある。

シミュレータのメリット

基本的な運転操作を、実車を使わず、安上がりに訓練できるのがシミュレータのメリットだが、もっと大きなメリットは別にある。それが、緊急事態対処操作の訓練である。

起きてはならない、あるいは起きて欲しくない緊急事態だが、だからといって何も備えないわけにはいかない。緊急事態に備えるには、実際に緊急事態を起こして対処訓練を行うのが理想的だ。しかし、実車でそれをやるのはリスクが大きいし、本物の緊急事態を必ず再現できるというものでもない。それを考えると、シミュレータが本領を発揮するのは緊急事態対処訓練であるといえる。

それに、営業運転を行っている線路で訓練を行うのは、費用がかかるし、ダイヤへの影響も考慮する必要がある。新線開業前の訓練運転ならいざ知らず、すでに運行している路線で訓練のために多くの列車を割り込ませるのは難しいこともある。

だから航空機の場合と同様、基本的なところはシミュレータでみっちり鍛え上げておいて、最終仕上げは本物の路線で実車を使って行う、という二段構えにすることになる。そうなると、シミュレータでどこまでリアルな環境を再現できるかが問題だ。

単に運転操作(加速や減速)に対する反応だけでなく、設置してあるハンドル・スイッチ類の操作フィールまで本物と揃えたいところである。それは実のところ、実車と同じ機器を持ってきて取り付ければ解決できる問題ではあるのだが。

また、実車の仕様変更がかかったら、シミュレータもそれに合わせて変更しなければならないが、これも飛行機と同じだ。実車の仕様変更なんてそんな頻繁にやるものなのか? と思われそうだが、たとえば新幹線700系電車で加速性能の引き上げを実施した事例がある。

ひょっとすると、すでに実現している事例があるかも知れないが、運行管理業務のシミュレーション訓練というのも「あり」かも知れない。運行管理システムをコンピュータ化していれば、そこにシミュレーション訓練機能を付加できる理屈だ。すると、ダイヤの乱れを模擬して指令業務の訓練を行える。といっても、模擬する内容の洗い出しやプログラムの作業は、かなり大変かも知れない。

こんなことを思ったのは、軍艦の指揮管制装置でシミュレーションによる模擬交戦訓練機能を内蔵しているケースがあるからだ。

執筆者紹介

井上孝司

IT分野から鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野に進出して著述活動を展開中のテクニカルライター。マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。「戦うコンピュータ2011」(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて「軍事研究」「丸」「Jwings」「エアワールド」「新幹線EX」などに寄稿しているほか、最新刊「現代ミリタリー・ロジスティクス入門」(潮書房光人社)がある。