13年ぶりの政権交代となった英国、David Cameron首相率いる新政府は前政権からの方向転換を大きく打ち出している。その1つが、IDカードの廃止だ。難航しつつも2009年11月に発給開始にこぎつけたばかりだが、2010年9月には廃止となる運びだ。

前回、Becta(英国教育工学事業団)の廃止をレポートしたが、今回のIDカードは当時野党だったCameron氏らが猛反対し、マニフェストにも盛り込まれていたことから、廃止は必至と見られていた。廃止は5月末の女王による施政方針演説で発表され、その後内務大臣のTheresa May氏が具体的な計画とともに正式発表した。

英国のIDカードは2001年9月11日に米国で発生した同時多発テロを受け、当時のTony Blair氏を首相とした労働党政府が2002年に構想を練り上げた。以前から酒やタバコ購入の際に年齢を表示できるカードを、というアイデアがあったようだが、Blair政権はテロや組織犯罪対策効果を前面に押し出して一気に法案をまとめあげ、2006年になんとか成立にこぎつけた。2009年11月にまずはマンチェスターで発給を開始、約1万5,000人が所持している。

クレジットカードサイズのIDカードは顔写真のほか、氏名、ID番号、国籍、出生地、生年月日などが表記されており、バイオメトリクス情報と顔写真のデジタルデータを埋め込んだチップを搭載する。2002年に構想が発表された当時は、国民全員に取得を義務付けることになっていた。これにあたり、政府はパスポートの発給機関と統合した新機関 Identity and Passport Service(IPS)を設立し、収集した個人データを管理するデータベース「National Identity Register(NIR)」を立ち上げた。NIRは、最大10の指紋データにはじまり、虹彩スキャン、これまでの居住地情報など50もの情報カテゴリを収集できることになっており、国民保険番号など他の政府機関との共有も可能としていた。

発給が始まっていた英国のIDカード

国民約6,000万人にこのカードを発給し、データベースを運用するコストは年間5億ポンド(外部団体の試算では、これをはるかに上回っていた)。Blair政権はこのような大型投資を必要とするIDカードの目的として、テロやID窃盗などの犯罪防止/保安対策、市民が利用できる簡易なID手段(欧州連合(EU)内であればパスポートの代用となる)などを強調したが、運転免許書やパスポートなどすでにある身分証明書との違いや、政府にさらなる個人データを提供することのメリットを具体的に示すことができず、強い反対にあった。さらには、英国で相次いだ政府機関のデータ流出も悪い印象を与えたはずだ。IDカードに反対する市民団体も生まれ、すでに噴出していたプライバシーの懸念に加え、目的の不明確さ、膨大なコストなどが激しく突かれた。

その結果、バイオメトリクスデータとしては虹彩スキャンと指紋がチップに格納されることになっていたが、指紋で十分と判断し虹彩スキャンは収集対象から外れた。政府はまた、取得義務付けも外し、希望者のみとするなどの妥協により、やっと議会を通過させたという経緯を持つ。

いざ発給が始まったものの、一部地区とはいえ6カ月間で発行された枚数はわずか1万5,000にとどまっていた。発給には手数料30ポンドが必要だが、うち約20%は空港職員に無償で発給されたものという。廃止による混乱やトラブルは限定的といえるが、手にして数カ月で何の役割も果たさなくなったカードの所有者に対し、新政府は手数料の払い戻しをしないとしている。

内務相のMay氏は廃止にあたって、今後4年間で8,600万ポンドのコストを削減できるとしている。この金額は、すでに契約していた4社(金額は合計で2億5,700万ポンドといわれる)との契約解消費を差し引いた額とのことだ。そして、前政権の下で強化されつつあった大きな政府への方向性から、市民の自由を尊重する新政府の姿勢を強調している。

このように英国では廃止となったIDカードだが、EUが推進していることもあり、欧州ではいくつかの国でIDカードが導入されている。

模範例に挙がることが多いのがエストニアだ。エストニアでは、政府が所有する自分の情報を管理/閲覧できるポータルを市民に提供、政府のどの機関がいつ・どの情報にアクセスしたのかなどもチェックできる。これまで共産政権だったという背景(強い政府を受け入れやすい)や小国ゆえのまとめやすさなど、さまざまな成功要因があると思うが、以前取材した際にエストニアの政府担当者が強調していたのは「透明性」だ。

一方、ドイツでは、他の政府機関とのデータ共有が禁じられているので、健康情報とリンクされるなどの可能性がない。このように、各国はそれぞれの政府の方針でIDカード計画を進めている。

なお、英国では外国人居住者向けにはバイオメトリクス技術を導入した滞在許可書の発行を継続する。これはEU法に基づくもので、英国国境局の管轄となる。