米航空宇宙局(NASA)は1月14日、2019年からの2024年までの国際宇宙ステーション(ISS)への物資補給を、米国の民間企業オービタルATKとシエラ・ネヴァダ、スペースXの3社に委託すると発表した。このうち、シエラ・ネヴァダは「ドリーム・チェイサー」と名付けられた、小さなスペース・シャトルのような有翼の宇宙往還機を開発し、補給を行うことを目指している。

これまでドリーム・チェイサーは、そもそもの源流となった計画から数えると半世紀近くもの長きにわたり、ソヴィエトと米国という二つの大国の中で歴史に翻弄され、轗軻数奇なる運命を歩んできた。

今回は「夢追人」こと、ドリーム・チェイサーが、宇宙飛行という夢に追いつくまでの歴史を見ていきたい。

「ドリーム・チェイサー」補給船の想像図 (C) SNC

国際宇宙ステーションに結合されるドリーム・チェイサーの想像図 (C) SNC

翼もつ宇宙機がふたたび宇宙を飛ぶ

米航空宇宙局(NASA)は1月14日、2019年からの2024年までの国際宇宙ステーション(ISS)への物資補給を、米国の民間企業オービタルATKとシエラ・ネヴァダ、スペースXの3社に委託すると発表した。

NASAは数年前から、ISSへの物資や宇宙飛行士の輸送を民間企業に担わせる計画を進めており、スペースXとオービタルATKはすでに2012年からその任に当たっている。

オービタルATKが運用する「シグナス」補給船は完全な使い捨て型の船で、一度打ち上げて補給した後は再使用ができない。スペースXの「ドラゴン」補給船はシグナスと異なり、大気圏に再突入する能力をもち、機体の再使用もできるが、後者についてはこれまで実施されたことはない。またカプセル型の補給船であるため、再突入時にかかるGが比較的大きい。

一方、今回が初採用となったシエラ・ネヴァダの補給船は、これら2つとは大きく異なっている。「ドリーム・チェイサー」と名付けられたこの補給船は、小さいながらも翼をもち、飛行機のように滑走路に着陸することができる。また再突入時に掛かるGもカプセル型より小さいため、ISS内の実験で生み出された、繊細な研究成果を持ち帰るのに適している。さらに機体は再使用でき、何度も繰り返し飛ばすことができる。まるで「スペース・シャトル」のような宇宙船である。

ドリーム・チェイサーはもともと宇宙飛行士を乗せて飛ぶ有人宇宙船として開発されていたが、現在では完全無人型となっている。しかし、滑走路への着陸能力や、また再使用能力はそのまま受け継がれている。現在はまだ開発中だが、数年以内に実際に宇宙へ飛ぶ姿が見られることだろう。

2012年にスペース・シャトルが引退して以来、翼をもつ宇宙機は米空軍の「X-37B」など、小型の実験機ぐらいしかなかったが、ついに人が乗ることができるほどの大きさの有翼の宇宙船が復活しようとしている。

しかし、今日に至るまでのドリーム・チェイサーは、決して順風満帆だったわけではない。そもそもの源流となった計画から数えると半世紀近くもの長きにわたり、ソヴィエトと米国という二つの大国の中で歴史に翻弄され、轗軻数奇なる運命を歩んできたのである。

翼をもつ宇宙機

翼をもつ宇宙機という存在は、宇宙開発の黎明期から多くの人々の心を捉え続けてきた。

その開発に熱心に取り組んだ国のひとつ米国では、最初の有人宇宙船「マーキュリー」が開発されるよりも前から、翼をもつ軍用の宇宙船X-20「ダイナソア」が開発されていたし、その後も米空軍や海軍、NASAがそれぞれ有翼の宇宙機、あるいは胴体そのものが翼となるような宇宙機、航空機の研究開発を続けられた。こうして長年育まれてきた技術は最終的に「スペース・シャトル」として結実し、数多くの宇宙飛行士を宇宙に送り込み、宇宙実験や国際宇宙ステーションの建設で活躍した。

X-20「ダイナソア」 (C) NASA

スペース・シャトルのオービター (C) NASA

一方、米国と世界の覇権を競っていたソヴィエト連邦でもまた、翼をもつ宇宙機の研究は活発に行われていた。その発端は米国と同様に宇宙開発のかなり早い段階にあり、ガガーリンが乗ったことで知られる「ヴァストーク」宇宙船の開発時には、すでに翼をもった機体が検討されていたことが知られている。もっとも、当時の技術力などから、ヴァストークは最終的に球形のカプセルとなった。

その後もソ連は翼をもった宇宙機の開発にいそしんだ。もちろん計画倒れに終わったものも数多いが、5機の「BOR」という試作機が造られ、1969年から1988年にかけて飛行試験を行ったことが知られている。BORとはロシア語で「無人の軌道ロケット飛行機」を意味する文の単語の頭文字から取られている。

ソヴィエトでは当初「スピラーリ」と名付けられた、米国のスペース・シャトルよりも小型の宇宙船を開発することが計画されており、そのため一部を除くBORは、スピラーリを縮小したような格好をしていた。しかし、米国がスペース・シャトルを完成させたことで、軍部が同等の性能をもつ大型の宇宙船の開発を要求。その結果、スピラーリ計画は廃棄され、後に「ブラーン」として知られることになる、いわゆる「ソ連版スペース・シャトル」の開発が始まることになる。スピラーリは消えてもBORシリーズは生き残り、ブラーンの開発に必要な要素の実験機として活用されることになった。

BORはシリーズを通して6種類が製造され、そのうちBOR-1からBOR-4までは、スピラーリを小さくしたような形状をしている。BOR-1はスピラーリの3分の1の大きさの機体で、1969年に軌道に乗らない飛行(サブオービタル飛行)で宇宙空間から大気圏に再突入してデータを収集。BOR-2は1959年から1972年にかけて4機が打ち上げられ、地上に帰還している。BOR-3は1973年と74年に2機が飛行したが、2機目は飛行中の事故で破壊されたという。

ソ連版スペース・シャトルとも呼ばれる有翼宇宙往還機「ブラーン」 (C) Roskosmos

BOR-3 (C) NPO Molniya

そして1980年には、スピラーリの2分の1ほどの大きさをもつBOR-4が開発された。知られている限りでは7機が製造され、そのうち3機がサブオービタル飛行、4機が1982年から84年にかけて宇宙飛行を実施しているとされる。

この中で、1982年6月4日に行われた、おそらく最初の宇宙飛行が、歴史が動く契機となった。