国立国会図書館長 長尾真氏「ウィキペディアは大いに活用させていただいている」

11月22日、東京大学工学部を会場に『Wikimedia Conference Japan 2009』が開催された。ウィキメディアの活動にスポットを当てたものとしては日本初のイベントとなる。基調講演では、ウィキメディア財団広報部長のJay Walsh氏がウィキペディアとウィキメディア財団の歴史と現状、そして展望について、また国立国会図書館館長の長尾真氏が、事典や辞書の構成を研究する「辞書学(lexicography)」と、辞書学の視点で見た現在のウィキペディアについて発表を行った。

辞書学とは

長尾氏は1990年に出版された「岩波情報科学辞典」の編集に携わった経験を持つ。後の話にも出るが、これは様々な視点から検索できることや、見出し語の相互関係の表現など、ユニークな特色を持つ専門事典だ。この他、様々な辞書の編集に参加したことを通じ、辞書・事典について関心を持ってきたという。

辞書学はヨーロッパで長い歴史を持ち、その研究の主たる課題は「見出し語をどのような範囲で集め、どのように配列するか」である。これが辞書の性格を決定する大きな要素だと言えるだろう。「語の単位をどのように選ぶか」「記述項目をどのように選び、どう配列するか」などもテーマとなっている。

一般的な単語辞書の他、類義語・逆引き・語源・慣用句など様々な辞書を辞書学の観点から見ても面白い

一方、事典の場合は、大きな項目を立ててそれを学問的に記述する中で、関連する小さな項目の説明を行う「大項目主義」と、大きな概念のことはさて置き個々のアイテムの説明を行う「小項目主義」とがある。典型的なものは、大項目主義が「エンサイクロペディア ブリタニカ」、小項目主義が「エンサクロペディアアメリカーナ」だが、その方針にも近年変化が見られるようになっているそうだ。

事典においては、その事典がどの分野をどの範囲でカバーするのか、またその中に存在する概念をどのような体系でとらえ、どの単位で取り出すかが問題となる。長尾氏はこれを"概念の粒度"と表現し、「単語の説明だけでなく、ある分野のどの概念、また類似の概念の中でどういう位置づけにあるのかを知ることが重要」だと述べた。

この意味において、岩波の「情報科学事典」は特徴ある構成となっている。収録された約1万5千語をオントロジーの体系(用語の木)に編成し、見出し語を約4,500、その他を見出し語の内容解説で説明し、小項目主義を採りながら大項目的にも利用できるようになっているという。また、用語の解説では概念の上位・下位関係の他、部分全体関係、性質・属性・機能・目的・因果関係を明らかにしている。例えば「ドア」なら「自動車」に対して「部分」という関係性がある。さらに、現時点での意味の他に、その語が歴史的にどのように発展してきたのか、歴史的な流れの中での説明も記述される。

他の語との関係と時間的な視点。「空間・時間の両軸で捉えないと片手落ちになる」(長尾氏)

辞書・事典においては、このように単語ひとつが表す意味だけでなく、それがどの分野のどんな位置づけにあるのか、どの語とどう関係があるのかを多角的にとらえていくこと、つまり「用語間の関係性のネットワークをどのように構築していくかが重要である」とまとめた。

辞書学から見たウィキペディアにおける問題点

このような辞書学の視点から見ると、現在のウィキペディアはどのような状態なのだろうか。長尾氏はその問題点を次のように挙げた。

"だいたい正しい"と言われるウィキペディアだが、辞書学から見ると?

ひとつは、見出し語について「用語選択における体系性・網羅性を検証しなくてはならない」という点だ。見出し語として適切なものが、様々な分野において満遍なく挙げられているかどうか、各記事の編集に参加しているボランティア側から見ることは難しい。対策の一例として、オーガナイズ側が手薄な分野を発見し、書いてもらえるような提案を行うことを挙げた。また、数百はあると言われる専門分野の用語については、「書いてくれる専門家がどのくらいいるのかが大きな問題になっていくのではないか」と述べた。

この点についてはカンファレンス運営者側も同じ考えを持っており、長尾氏の公演後に「記述のない項目について、何が欠けているかが専門家でないと分からない場合が多い。それを補うためには、専門家にボランティアとして書いて頂くのが最善。ぜひ参加をお願いしたい」と会場に呼びかけた。

次に、記述内容について、項目によって「情緒的に書かれている場合もあるし、分析的であっても抜けている部分のある場合も見られる」と、多数の人が参加することの難しさを指摘。その対策として、"この種類の単語についてはこのような記述が必要"という事例を用意し、記述者が利用できるようにすることで「均質な良い内容の記述になるのでは」と考えを示した。

さらに、一般的にWebサイトで得られる情報の信頼性が問題になっていることを挙げ「書く人にはもちろんだが、利用者に対しても、他の情報との相互参照で信頼性を確保することをぜひやっていただきたい」と提案した。

頻繁に現れる"新語"や"新しい分野"をいかにフォローするかも大きなテーマだ

最後に、長尾氏は「今後、このようなことを踏まえてポリッシュアップしていくことで、ますます素晴らしい辞書になっていくのではないかと思う」と、ウィキペディアについての期待を述べた。