一度でもツーリングをしたことがあるライダーなら、美しい海や山の絶景に心を打たれたり、爽快なワインディングロードに感動したことがあるはずだ。しかし、その逆に渋滞ではイライラしたり、退屈で眠くなることもある。

走行中にライダーの感情は変化するが、これを可視化して「感動体験」を記録として残したり、仲間とシェアできればバイクライフはさらに楽しくなるのでは?こんな発想からヤマハ発動機が開発を進めているのが「感情センシングアプリ」だ。

「感情」は本当に可視化されるのか?

このアプリはライダーの心電を計測し、そのデータをもとに「緊張」や「喜び」、「退屈」といった感情の動きをリアルタイムで可視化できるという。2024年の実用化を目指して現在は実証実験中というが、本当にそんなことが可能なのだろうか? 実用化よりも一足先に、実際に体験してみた。

  • ライダーの感情を可視化する「感情センシングアプリ」の画面

走行前の準備として、ライダーの胸部に「ベルト型心電センサー」を装着する。(写真は衣服の上からだが、実際には素肌に巻く)。詳しいしくみについては後述するが、これで計測した心電データがBluetoothでスマートフォンに送信され、アプリがライダーの感情を推定して表示・記録するそうだ。

  • テストコースは「皇居一周」。ベルト型の心電センサーを装着してスマートフォンのアプリを起動させれば準備完了

スタート地点はヤマハ発動機のオフィスがある丸の内。筆者は学生時代にバイク便で都内を走っていたが、それはかなり昔の話だ。景観はすいぶん変わってしまったため、何も考えずに走らせると戻ってくるまでかなり時間を要するかもしれない。しかし、昔と変わらない皇居の一周コースなら分かりやすいし、後半の港区周辺なら土地勘があるので、そのあたりで時間を考慮しながら周回コースを外れてみるのもよいだろうと考えた。

  • 緊張を示す渋滞道路(左)と、感動を示すツーリングロード(右)の表示例

なお、アプリを起動したスマートフォンはハンドルにはマウントせず、ウエアの胸ポケットに入れたままなので、走行中に画面を見てはいない。軽く緊張をほぐすように、ひとつ深呼吸してからスタートした。

使用するバイクは最新の「XSR125」

アプリのテスト用に使った「XSR125」は2023年冬に発売された最新ネオレトロモデル。各パーツの質感や大きめの車格は125ccとは思えない立派なもので、VVA(可変バルブ機構)採用のエンジンも全域で扱いやすい。シートは高め(810mm)でボリュームもあるが、それがワンクラス上の乗り味や、下半身で車体を操る楽しさを生み出しているようだ。

  • 車格と質感はワンクラス上だが扱いやすい「XSR125」に乗ってさっそくスタート!

スタートまもなく、些細なアクシデントが発生 日比谷通りから「馬場先門」、「二重橋前」と右折し、内堀通りに入って北上する。天気は快晴で、12月初旬だというのに気温は15度もある。冬用のウエアなら心地よい涼しさで、真新しいXSR125も軽快でとても気分がよい。しかしそれで油断したのか、早々に予定のルートを外れてしまったのだ。

筆者の左前方に何台か車両が走っていたが、その前方で急停車したタクシーを避けるため、立て続けに筆者の目前に割り込んできた。パニックブレーキをかけるほどではないが、前方で事故がおきる可能性もあったため右の車線に移ったところ、そこは二車線の右折レーン。目の前に車線変更禁止の黄色いラインが迫っていたため、ここは慌てず、予定のルートからは一度外れ、その先の交差点で右左折を繰り返して戻るのが安全だろうと考えた。

走行後にこの時のデータを見ると、目に前で割り込まれた地点の直後では快適度を示す色の表示が若干「緊張」や「イライラ」を示す赤系の色を示していた。確かに急な割り込みに少し驚き、ムッとしたのだ。また、予定のコースに戻ろうとしている時は時間も十分にあったため、焦ることはなく『ただ一周するより面白いデータが取れるかもしれないな?』とも思っていたが、これも「安心」の緑色が表示されていた。

  • 走行序盤に記録された表示画面

個人差はあるが、しっかり表示された感情の変化

周回コースに復帰直後は、周回する車線が減少する交差点や首都高入り口のレーン直前で若干の「緊張」を示す赤系の表示。確かにここは間違えないように少し気をつけていた。その後は順調に周回コースを走行し、丸の内の手前に戻ってきたあたりでホッとする。しかし、長い右折待ちの渋滞に遭遇し、これに巻き込まれる形でゴール地点が分からなくなった。XSRを路肩に止めて自分のスマートフォンで位置を確認したが、GPSの精度が悪いようで少し「イライラ」。この時もアプリ上では赤系の色が表示されていた。何度か場所を変えてチェックしながら無事に戻ってきたが、その時には「安心」という感情データもきちんと出ていたのだ。

ヤマハ発動機の担当者によると、筆者はほかの人に比べて極端な色の変化がなかったという。感情の出方には個人差もあるそうだが、筆者の場合は長く勤めた東京の街を見慣れていることや、テストに使った「XSR125」に感心していたとはいえ、都内では適度なパワーと軽快な車体でリラックスして乗れる125ccだったことも関係しているはずだ。乗りなれた愛車で有名なツーリングスポットを走っていたら、もっと大きな変化があったかもしれない。しかし、それでも小さな感情の変化はしっかりと示されていたのには正直驚いた。

  • 周回コース復帰からゴール直前に記録された表示画面

  • ゴール目前にナビが不調した表示画面と全行程の走行データ

どうやって感情を可視化しているのか

例えばヘビを見て驚いた時にはドキドキして汗をかくように、感情に変化がおきた際は、「脳波」、「心電」、「脈波」、「呼吸」、「発汗」などの生体信号に変化が現れる。少し前から生体信号を測定するスマートウォッチなどのウェアラブルデバイスが注目されてきたが、数値だけではヒトの感情までは分からない。しかし、近年はAIを活用して感情を推定する技術の開発が急速に進んでいるようだ。

「感情センシングアプリ」はオートバイメーカーであるヤマハ発動機と、ヘルスケアの分野で多様なバイタルセンサーやAI解析を行うミルウス、さらにヒトの生体信号の解析と、それを活用してロボットによる支援などを研究していた横浜国立大学の島圭介准教授の共同開発によって生まれたものだ。今回はヤマハ発動機・カスタマーエクスペリエンス事業部の井上真一氏と島准教授にシステムのしくみを解説していただいた。

  • 生体信号を用いた感情推定の原理

ライダーの感情推定に「心電」を採用した理由

島准教授によれば、感情認識は感情価(感情の正負)と覚醒度(感情の激しさ)の2軸で表現できるという。主流は「脳波」をはじめとした信号をたくさん使い、いろいろな生体情報を取り出してAIで推定・評価するが、ヘルメットを被るライダーの場合、頭に脳波計をつけるのは難しい。そこでできるだけ簡単に信号が取れる「心電」に着目したという。近年の心電センサーは比較的安価で高性能なうえ、身体に巻くことできれいな信号が取れるというメリットもあるそうだ。

心電を用いた感情推定の開発プロセスは、まず「心電」以外にも「脳波」や「発汗」、「脈波」、「呼吸」などの生体信号も計測し、それらの特徴を抽出してヒトの感情を学習した“先生”のようなAIを作る。次に「心電」だけを使う“生徒”のAIを作り、“先生”のAIから教えてもらう形で、心電図のどんな特徴を見れば感情が推定できるのかを学習させたという。

  • 心電による感情推定システム

開発を進めていくと、当初考えていたよりも技術的に実現できる手ごたえを感じたが、同じようなシーンでも感情に個人差が出るという発見もあったという。濡れた路面で緊張する人もいれば、リラックスする人もいるなど、人による違いをアルゴリズムに学習させることは大変だが、本人が気づいていないことも考えられる。データを見ることで意識していなかった自分の感情を理解するといった使い方もできるのではないかということだ。

「感情センシングアプリ」で広がるバイクの楽しみ方

例えばツーリングの道中で美しい景色に感動したスポットがあったとする。そこが初めて訪れた地域だったり、道に迷って偶然たどり着いたため正確な場所を覚えていなかった場合、このアプリを使えば、走行ルートと感情の動きを振り返ることができ、次回も立ち寄る「絶景ポイント」として記録したり、仲間と共有することも可能になる。

また、ツーリング以外の日常的な走行でも「どんな場所やシチュエーションでイライラしていたのか」、「深呼吸をして冷静さを取り戻していた」といったように、自分の走行と心の動きを客観視して、安全のために感情をコントロールする方法を見つけるという使い方もできるだろう。

  • このアプリでできること(1) ツーリングの振り返り

  • このアプリでできること(2) 仲間との体験の共有

「バイクが趣味」といっても、その楽しみ方はライダーによって大きく異なる。知識やライテクの向上に熱中する人もいれば、あまりストイックにならずに自分のレベルで走らせたり、インカムやSNSで仲間とつながることに喜びを感じる若い世代も多い。どれが正しいというわけでないが、すべてのバイク好きに共通しているのは『楽しいから乗っている』という「感情」を持っていることだ。

自分の心の動きを知ることができる「感情センシングアプリ」はベルト型センサーを胸に巻いてスマートフォンにアプリを入れるだけなので、ナビやドラレコといった車載デバイスより安価で簡単に装備できそうだ。新しいテクノロジーに敏感な若い世代はもちろん、中高年も含めた多くのライダーが『これは面白い!』と思うのではないだろうか。