商売人には向いていない?

「毎度おおきに」

そのひとことが自然に言えていたら、書体設計士・橋本和夫は誕生していなかった。

書体設計士・橋本和夫さん

書体設計士・橋本和夫さん

活版印刷で用いられた活字、オフセット印刷や画面表示などに用いられている写植やデジタルフォント。三世代の書体デザインにたずさわってきた83歳の現役書体設計士・橋本和夫さんは、大阪市浪速区の生まれだ。5人兄弟の3番目で、1935年(昭和10)2月生まれ。父は戦前、近所のひとと共同経営で、豆菓子の製造・販売業を営んでいた。

戦時中に小学生だった橋本さんは、小学4年生から2年間、滋賀県への学童疎開を経験した。戦争が終わり、大阪に戻ると、自宅も小学校も全焼し、あたりは焼け野原。かつて校庭だった場所に机と椅子を置く「青空教室」で過ごした。

戦後、学校制度が6・3・3・4制となり、橋本さんは新制中学の1期生として、浪速西中学校に入学した。卒業後は、浪速高校に進学。クラスメートの8割以上は中学卒業後に就職の道を選ぶという時代だった。

「同級生でも高校に進学したのは2人か3人でした。ぼくはたまたま運がよかったんですね」(橋本さん)

高校に通っているころ、ひとまわり歳の離れた一番上の兄が商売を始めた。研究所や化学工場に、フラスコやビーカー、試験管といった実験器具を納める仲介業者だった。橋本さんは高校を卒業すると、兄の仕事を手伝うことになった。

「研究所や工場をまわって、『フラスコを何個もってきてください』などと注文を受けては、割れないようにそれを梱包して、自転車で配達する仕事でした。それはいいんだけれど、大阪では商人がそうやって配達に行くと、『毎度おおきに』と言って入っていくのがふつうだったんですね。ぼくはその『毎度おおきに』という言葉がすごく苦手だったんです。もちろん、無言で入っていくわけじゃないですよ。『こんにちは』とあいさつして入っていってましたけど、ぎこちなかったんでしょうね。兄貴はよく『おまえのとこの弟はなんだ』と言われたらしい。でも、白衣を着た、しかめつらしい研究所のひとたちに気軽に話しかけることが、ぼくにはどうしてもできなかったんですね。だから、自分は商売には向かないんだなと思ったんです」

そんなときに新聞で、たまたま求人広告を見つけた。

「事務員募集と書かれているのを見て、内勤ならばぼくに向いているんじゃないかと思って、履歴書を送りました。会社勤めをして月給をもらいたいという思いもあった。兄貴の会社の手伝いだと、月給ではなく、こづかいをもらうという感じだったので」

やがて先方から、「面接に来てください」という連絡が入った。「モトヤ」という会社だった。

「なにをしている会社かは、まったく知りませんでした」

ゲンジ課に行ってください

指定された日にモトヤを訪ねると、社長の古門正夫氏が現れて「ちょっと待っててもらえますか」と言われた。てっきりそのまま面接をおこなうと思っていたら、また別の眼鏡をかけた年輩の男性が、紙をもって現れた。5~6cm四方のその紙は、よく見るとなかに青い線が1mm間隔ぐらいで縦横に引かれた方眼紙だった。

男性はそれと面相筆を橋本さんに渡すと、「この紙に2マス分の幅で四角い枠と『+』を描いてください」と言った。道具は墨と筆だけで、定規もない。橋本さんは驚きながらも硯で墨をすり、その細い筆ではみ出さないように一生懸命マスを塗りつぶしていった。

「2mm幅の線の塗り絵みたいなものですよね。青い線からはみ出しちゃダメっていうんです。方眼用紙自体も初めて見ましたし、そんな細い線を筆で引いたこともない。とにかく必死で描いて、だいたい1時間ぐらいで終わったでしょうか。年輩の眼鏡の男性に渡すと『まあよう描けてますね。今日はもう帰っていいですよ』と言われて」

ただ「1週間後にまた来てください」とだけ言われた。どうやら試験に合格し、採用されたらしかった。

1週間後の1954年(昭和29)6月15日、橋本さんは再びモトヤを訪ねた。

「橋本さんは、ゲンジ課に行ってください」 「ゲンジ?」

事務員募集に応募したのだから、総務課や人事課で仕事をするのだと思っていた。「ゲンジ」という仕事は聞いたことがなかった。

「ゲンジ」とは、活版印刷に用いる金属活字のデザインのもととなる「原字」のことだった。橋本さんが就職した「モトヤ」は、活字製造販売会社だったのだ。津田三省堂や森川龍文堂、日本活字、岩田母型(現イワタ)とならび、活字で有名な会社。現在もデジタルフォントや印刷機材販売をおこなっている株式会社モトヤである。(つづく)

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。