青く光る広い宇宙へ

  • 射点へ向けて移動するH-IIAロケット50号機
    (C)鳥嶋真也

2025年6月28日10時30分、種子島宇宙センター。H-IIAロケット50号機が、大型ロケット組立棟(VAB)から、打ち上げを行う第1射点(LP1)へ移動させる「機体移動」を開始した。

VABの大扉が開く。2台の移動発射台運搬台車(通称ドーリー)のエンジンがうなりを上げ、移動発射台に載った巨大なロケットが姿を現す。LP1までの約500mの距離を、約30分かけてゆっくりと移動し、寸分の狂いもなく射点に到達する。

「世代柄、どうしても『サンダーバード』(1960年代の特撮人形劇)のテーマソングが頭に流れるんですよ」と笑って語るのは、H-IIAの打上執行責任者である三菱重工の鈴木啓司氏。1960年代に一世を風靡した特撮ドラマの壮大な音楽が、機体移動の迫力と現場の緊張感と重なる。

ロケットが射点に着くと、作業者たちが一斉に取りつき、配管やケーブルの接続作業を始める。

「その光景を見ると、ロケットが『システム・オブ・システムズ』(複数のシステムから構成され機能するシステム)と呼ばれるのはまさにこういうことなんだ、と実感します。無数の部品と技術が結集し、努力が形になる瞬間は、大きな魅力を感じます」と鈴木氏は語る。

  • 三菱重工 防衛・宇宙セグメント 宇宙事業部 H-IIA打上執行責任者の鈴木啓司氏
    (撮影:三菱重工)

その言葉を胸にロケットを見つめると、技術と知見、情熱の結晶であるその姿に、畏敬の念が湧いてくる。

だが同時に、ロケットは非情な機械でもある。わずかな見落としが重大な失敗につながる。一度飛び立てば、ブレーキをかけて止めることも、緊急着陸することもできない。打ち上げは成功か失敗かの二択しかない。

その厳しさを、三菱重工の矢花氏はこう表現する。「たとえば、プログラムを書いて実行すると、最初はたいていエラーが出ますよね。でも、ロケットには『一発で完璧なプログラムを書け』という、極めて高い要求が課されるんです」

「もちろん、すべてを完璧にするのは現実的ではありません。そのため、ミッションを成立させるために絶対ここは譲れない、というところに重きを置いて注力。その視点を常に意識して、仕事に臨んでいます」(矢花氏)

  • 三菱重工 防衛・宇宙セグメント 宇宙事業部 主席プロジェクト統括(H-IIAプロジェクトマネージャー)の矢花純氏
    (撮影:三菱重工)

技術が教えてくれること

それでも、H-IIA 6号機やH3試験機1号機のように、失敗は起こってしまう。

「技術って、正直なんですよ」と矢花氏は言う。

「失敗を調べると、『やはり起こるべくして起こった』とわかります。6号機で起きたSRB-Aのエロージョン(第6回参照)も、開発試験でそのリスクはわかっていたのに、補強で対応できると判断して打ち上げを続けた結果、失敗しました」(矢花氏)

さらに矢花氏はこう続ける。「別の視点で見れば、エロージョンが起きたところから燃焼ガスが噴き出しても、分離信号の配線がそこになければ焼き切られず、正常に分離できたかもしれません。もっと広い視野で全体を見ていれば、失敗を予見し、防げたかもしれません」

この反省が、7号機以降のH-IIAや、H3ロケットに活かされている。配線の冗長化や配置の見直しなど、細かい改善の積み重ねが現在の品質を支えている。

「総点検では、たとえば、2段エンジンのセンサー類を冗長化しました。エンジンが壊れて燃焼ガスが噴き出しても、配線が焼き切られないよう配置を見直し、配線を二手に分ける対策も施しました。そうした積み重ねが、いまの品質を作っているのだと思います」(矢花氏)

「これまでの失敗から、ロケットには私たちの想像を超える世界が潜んでいることを実感しました。だからこそ、フライトで起こり得ることは、地上で徹底的に検証する姿勢が根付きました」(同)

そして、矢花氏は「これから失敗を経験していない若手が入ってきますが、その大切さをしっかり伝えたいと思います」と結んだ。

「夢や初心のワクワク、最後まで忘れないで」

  • H-IIAロケット50号機の打ち上げ
    (C)鳥嶋真也

機体移動を終えたロケットに、やがて推進薬の液体酸素と液体水素の充填が始まった。そして日付が変わり、6月29日1時33分3秒、H-IIA 50号機が宇宙へ飛昇していった。

機体移動や打ち上げの様子は、打ち上げに直接関わっていないエンジニアや関係者も多く見守っていた。また、週末だったこともあり、親子連れや学生も訪れ、宇宙への夢を語り合っていた。

そうした若い世代へ向けて、鈴木氏は語る。

「ロケットは、日本と世界の持続的発展に不可欠な技術です。今後さらに造りやすく、打ち上げやすい方向に進化していくでしょうが、それでも失敗のリスクは常に伴います。それは宿命と言えるでしょう」(鈴木氏)

「成熟した機体でも、わずかなミスがあれば失敗します。そこで私たちは、『一つひとつ丁寧に』、そして『異常発見、まず止まれ』を合言葉に、何事も過信せず、油断せずにやっています。その姿勢を、これからも大事にしてほしいです」(同)

そして鈴木氏は、「私も一度体調を崩したことがありますが」と前置きしたうえで、こう続けた。「ロケット技術を維持し、発展させるには、優秀でタフなエンジニアが必要です。甘い世界ではなく、つらいことも多いです。でも、それでもやっぱり、この世界には他では見られない景色があります。とても魅力的な仕事です。ぜひ、ロケットの世界へ来てください」

矢花氏は、「夢や初心を抱いたときのワクワクを忘れないで欲しいですね」と語る。

「私は、1986年のハレー彗星の大接近や、チャレンジャー号の事故、映画『スペースキャンプ』を見たことなどがきっかけで、ロケットを造りたいと思うようになりました。その想いが、数学や物理のモチベーションにつながって、そして夢が叶って、いまがあるんです」(矢花氏)

「ロケット開発には、泥臭い作業やつらいことも多くあります。しかし、夢を持っていたから乗り越えられました。やりたいことがあれば、つらくても楽しくなります。だから、皆さんも『ワクワクする夢』を見つけ、それを持ち続けてほしいです」(同)

そして未来へ──H3打上げ成功率99%をめざして

H-IIAは、50号機の打ち上げをもって見事に有終の美を飾った。

「最初は、50機なんて行くわけがないと思っていたんですよ」と振り返るのは徳永氏だ。

「これからH3は年間7機以上の頻度で打ち上げ、約20年間運用する予定です。ですから、100機は超えてほしいですね」(徳永氏)

そして、成功率でも上回ってほしいとエールを送る。

「50号機の打ち上げ前、H-IIAの成功率は約97.96%で、四捨五入して約98%って言ってたんですよね。それが、50号機が成功したことで、きっかり98.00%になりました。そしてH3では、ぜひ成功率99.00%を達成してほしいです」(同)

  • かつて三菱重工でH-IIやH-IIAの開発、運用に携わった徳永建氏(現・MHIエアロテクノロジーズ 執行役員 防衛・宇宙事業部 技師長)
    (撮影:三菱重工)

打ち上げが終わり、種子島に静寂が戻った。記者会見を終え、外に出ると、日が昇っていた。それはまるで、H-IIAからH3へバトンが受け継がれ、日本のロケット史が新たな夜明けを迎えたことを象徴するかのようだった。

その夜、関係者は種子島の飲み屋に集まり宴会を――いわゆる“打ち上げの打ち上げ”を開いた。そこで、誰かがこう呟いたという。

「明日、ゴルフにでも行こうかなあ」

プレッシャーと緊張に満ちた打ち上げのあとでも、そう言えるだけの余裕とタフさがあった。

それは、ロケットの打ち上げが、特別な出来事から日常の営みへと変わりつつあることを意味している。

そこに至るまでには、挑戦と失敗、改良と成功の積み重ねがあり、全身全霊を傾けたエンジニアたちの情熱と執念があった。

そして、たとえロケットの打ち上げが日常になっても、空を見上げる誰かにとって、それは特別な光景であり続ける。

さまざまな想いを載せ、ロケットはこれからも種子島から宇宙へと夢のアーチを描き続けるだろう。

  • H-IIAロケット50号機が描いた光跡
    (C)鳥嶋真也