
香港が中国に返還された1997年7月1日の翌日早朝、電話が鳴った。『長門支店長、タイ中央銀行です。内外銀行トップ全員の緊急会議を午前6時より中央銀行で開催します』。 『了解』と答え冗談を加えた。『6時の会議後はカクテルパーティーをやるのか?』。一瞬の沈黙後、ユーモアが返された。『いえ、この6時会議では朝食も出ません』。
6時半、タノン大蔵大臣とラーンチャイ中央銀行総裁が全銀行トップに変動相場制への移行を宣言。アジア通貨危機がタイから勃発した。
金利水準はドルがバーツの半分だった故、タイ企業借入は多くドルだった。1ドル25バーツが50バーツに切り下がり、多くの企業負債はバーツ建てで倍になった。
ほとんどの企業が債務超過でリストラのみが課題になった。タイ国も海外投機団から猛攻撃を受け金庫は既に空っぽ。さて、どうするか。中山素平先輩の言葉が耳にコダマした。『問題は解決するためにある』。
我が国バブル崩壊後、日本興業銀行(現みずほ銀行)営業本部で不良債権担当となり、住専(住宅金融専門会社)や兵庫銀行(現みなと銀行)問題等と格闘した。
それらと同様、タイ個別企業の状況は深刻だが、タイ国の状況は少し違っていた。未だ発展途上で若い国。個人消費も相応規模。製造業の下請け企業群の層の厚さはASEAN(東南アジア諸国連合)で随一。宗教問題も小さい。英国ウィンブルドン政策に似て、外資との共存志向だ。国の救済には貢献出来る、と読んだ。
タノン大蔵大臣と個別面会した。『大臣、最大のご希望は?』『輸出業者に融資して欲しい』『個別企業は財務状況深刻で無理だ。しかし、国には貸せる。国から彼らに転貸すべき』『IMF(国際通貨基金)等の規制で国は追加借入出来ない』『借入可能な国に似た組織はないか』『考えてみる』。
翌日、大蔵大臣から電話があり、『タイ輸出入銀行が借りる。今日、プリディヤトーン輸銀総裁を興銀支店に派遣する。詰めて欲しい』。東京本社とも擦り合わせの上、タイ国救済第1号案件をタイ国に提示した。
『アジアは危ない。既存資金は引く。新規貸出は休業』と多くの銀行が逃げの姿勢を取る中、前向き10行により第1号案件5億ドルは10月に実行された。この案件後、首相や大蔵大臣等あらゆるVIPとは顔パスで面談可能となり、密に意見交換をする様になった。
「危機」は危機と同時に機会も意味する、とよく言われる。その通りだ。危機に際しても知恵を尽くし真正面から取り組めばチャンスに転ずる。危機と遭遇したら、シメタ、と思おう。