「自分の人生を振り返ると、本当にいろいろな方の支えがあって、ここまでやって来られました。今度は自分がその役割を果たすべき時が来たと」─。今年12月、経営の第一線を退く資生堂会長CEO(最高経営責任者)の魚谷雅彦氏(1954年生まれ)は、「次の若い世代の方々に対して、僕がいろいろ指導を受けたような役割をすることが自分の使命ではないかと」と語る。大学卒業後、ライオンに入社。コロンビア大学大学院でMBA(経営学修士号)を取得。シティバンク、クラフト・ジャパンを経て、日本コカ・コーラ社長、会長を務め、2014年資生堂社長に就任。そして2023年会長CEOに就任と、”プロの経営者”の道のりを辿る中で、資生堂では『世界で勝てる日本発のグローバルビューティーカンパニー』を標榜。今は、中国事業の手直しなど、構造改革が進む同社だが、「こういう時こそ、顔を上げてチャレンジしていく時」と社内を激励。環境や時代が変化していく中で、「人を幸せにし、人のために役立つという普遍性は変わらない」という人生観。第一線を退いた後の生き方とは─。
希望を捨てずに日々、頑張っていると…
「誰かが見てくれている。世の中には、見てくれている人がやはりいるんだと」─。
資生堂会長CEO(最高経営責任者)の魚谷雅彦氏(1954年=昭和29年6月生まれ)は自らの人生を振り返って、こう胸の内を明かす。
1977年(昭和52年)、同志社大学を卒業して、ライオンに入社。大阪で営業畑に配属され、営業車を駆り、懸命に問屋の営業回りに打ち込みながら、「アメリカへ留学したい」という希望を持ち続けた。
入社3年後に、米コロンビア大学大学院に学ぶ機会を得て、留学。MBA(経営学修士)を取得した。
その後、シティバンクを皮切りに、フィリップ・モリスの食品事業会社であるクラフト・ジャパン(現モンデリーズ・ジャパン)、日本コカ・コーラの社長・会長を経て、2013年マーケティング統括顧問として資生堂に入社。
翌2014年4月、執行役員社長になり、同6月には代表取締役執行役員社長に就任し、資生堂の経営に当たってきた。2023年1月、代表取締役会長CEOとなり、今年4月、取締役代表執行役会長CEOに就任という〝プロの経営者〟としての魚谷氏の足取りである。
大学卒業後、社会に出て47年余。50年近くを社会人、企業人として歩んできた道のりを振り返りながら、様々な場面で、「助言や支援をいただきました」と魚谷氏は述懐。
そうした助言を得て、1つずつ人生の階段を上り、前進することができたということ。感謝の意味を込めた魚谷氏の「誰かが見てくれている」という感慨である。
ライオンに入社したいと思ったのは、米国に留学したいという希望があったからだ。同志社大学文学部英文学科で学んだ魚谷氏は、世界をもっと知りたいという思いが強く、米国留学ができる機会を常々うかがっていた。
ミッション系の大阪星光学院高等学校に在籍していた頃から英語に熱中していた魚谷氏は、父親の友人から、「ライオン歯磨(現ライオン)という会社は毎年2人ほど海外留学させてくれるらしいぞ」という話を聞きつけ、就職に当たってライオンの入社試験を受けたのである。
当時のライオン歯磨社長は小林敦氏(1926―2000)。小林氏は米コーネル大学に留学した経験を持つ国際派で、米ブリストルマイヤーズと提携し、整髪剤の『バイタリス』を日本で販売して成功。1960年代初めの出来事で、それまでポマードしかなかった日本の男性に液体整髪料をということで、一世を風靡した製品である。
10数人の同期がいた中、魚谷氏が配属されたのは大阪の営業現場。販促物を積み込んだ営業ライトバンを運転し、問屋回りに追われる日々に、魚谷氏の中で「本当に留学できるのだろうか」という不安が募った。
周囲の先輩からも、「アメリカ留学と言ったって、この大阪の現場で這いつくばって汗流している俺らみたいな者の中で、留学したのは1人もおらへんぞ」と言われることもあった。
悩んだ魚谷氏は会社役員をしている知り合いに相談。
何を甘い事を言っているのかと一喝されることも想定していたが、あに図らんや、「夢を持ちながら、日々、自分の在り方で思い悩むのはいいことだよ」という励ましの言葉が返ってきた。
営業先の問屋社長から貰った言葉に…
そして、その先人はこうも付け加えた。
「君は社会に出たばかりだ。1年後にまた会って、君の気持ちを聞かせてくれ。その時に、夢が実現できないというのであれば、仕事を変わるなり、いろいろ考えたらいいのじゃないか」
この言葉を聞いた魚谷氏は、心が落ちつき、同時に、「仕事に打ち込もう」という気持ちになった。そうなると、営業成績も自然と良くなっていくもの。
ちょうどそんな時に、営業先の某社長に「ちょっとおいで」と呼びだされた。
その社長は野球好きで、大の阪神ファン。社長が手にしていたスポーツ新聞には、伝統の巨人―阪神戦で、巨人から阪神に移籍した小林繫投手が、古巣巨人を相手に見事なピッチングを繰り広げた記事が載っていた。1979年(昭和54年)のリーグ戦である。
当時、新人選手を獲得するドラフト会議で江川卓投手をめぐり、ある騒動があった。剛腕の江川投手を獲得したい巨人軍は、新人獲得協約すれすれの秘策でドラフト会議前に江川投手と密かに契約。ドラフト会議で江川投手との交渉権を引き当てた阪神とスッタモンダの末、手持ちの小林繫投手とトレードするという妥協策で最終的に合意。
世論が圧倒的に阪神・小林投手側に味方する中、小林投手が古巣・巨人に一矢を報いたことで、当時は大変な話題になった。
試合後、阪神ファンの興奮冷めやらぬ中、スポーツ紙は小林投手の力投を『一球入魂』という見出しを付けて報道。
件の社長はスポーツ紙を手にしながら、「一球入魂。魚谷君、最近の君にはこれを感じるよ」と魚谷氏の働きぶりの変化を評してくれたのである(後のインタビュー欄参照)。
その問屋の社員の間では当初、社会人になったばかりの魚谷氏のことを、「声は小さいし、ヤル気がなさそうな雰囲気だな」と評価していたという。
それが途中から、「毎度おおきに」と明るい声で訪ねてくるようになり、「提案もしてくるし、あいつ、なかなかエエですね」と問屋での評価も変わっていったというのである。
「問屋の社長さんから直々に、『うちの売上も上がっているよ』と言われて嬉しかったですね」と魚谷氏はその時の気持ちを語り、次のように続ける。
「そういうふうに前向きな気持ちで過ごしていると、いろいろな形で周囲の認識も変わっていく。世の中って、誰か見てくれている人がやはりいるんだなと」
職場の先輩たちからも理解・協力を得て
自分の目標に向かい、進むべき道を進んでいると、次第に周囲の評価も変わっていく。
今から40数年前の日本企業社会では、先輩=後輩の関係は秩序立っていて厳しいものがあった。
そんな時代に、米国留学を希望し、「週に2回。英会話学校に通うつもりです。そのためにお先に失礼します」と職場に言うのには、勇気が要ったであろう。
当時の営業現場には、午後6時過ぎに「お先に失礼します」と言うだけで白い目で見られる雰囲気があった。「ええ、お前何だよと。生意気なやつだなあ、と受け取られていたと思います」と魚谷氏も語る。
しかし、入社して1年後、件の問屋の社長に褒められる頃になると、先輩たちも、「おい魚谷、もう6時過ぎだぞ。はよ学校へ行かな。大丈夫か」と声を掛けてくれるようになった。
一生懸命、仕事に打ち込んでいると、いつしか周囲の見る目も変わっていったということ。
「ええ、自分で言うのも何ですけど、仕事に背を向けて、面白くないという態度のままだったら、こうはならなかったと思います」と述懐する魚谷氏だ。
ライオン人事部の計らいにも感謝
そうやって仕事に専念していると、ライオン歯磨(現ライオン)東京本社人事部から留学資格試験についての連絡があった。
普通は入社5年経たないと受験資格がないが、大阪の営業現場で頑張っている社員がいると聞いた本社人事部が取り計らい、「あなたは入社3年しか経っていないが、留学試験を受けますか?」と魚谷氏に聞いてきたのである。もちろん、魚谷氏は、「受けさせてください」と即答。
試験の1回目は論文提出。そして翌年の2回目の試験で論文と社長面接を受けることになった。結果、魚谷氏は小林敦社長(当時)の面接を受け、技術系の社員と共に合格者2名の中に入ることができた。
「社費で留学させてもらうわけですからね。本当にありがたくて、今でも感謝しています」
魚谷氏は「感謝」という言葉を繰り返しながら、続ける。
「おかげさまで、この40数年間、こうやってきて、伝統ある企業のトップにもなるという機会をいただきました。振り返ってみると、僕は若い時に限りなく、いろいろなひとから教えてもらったり、学んだりしてきました。本当に感謝です」
メンターとの出会い
魚谷氏と会うと、よくメンター(Mentor、助言者、指導者)という言葉が出てくる。経営者になるまで、また経営者になってからも、その場面場面でメンターとの出会いがあり、そのつながりを大事にしてきた魚谷氏。
先述のとおり、魚谷氏は米コロンビア大学大学院に学び、MBA(経営学修士号)を取得。ライオンを退社した後、1991年(平成3年)、フィリップ・モリスの食品事業部門であるクラフト・ジャパン(現モンデリーズ・ジャパン)に入り、副社長として日本国内の事業統括責任者を務めた。
その後、1994年(平成6年)日本コカ・コーラ入社。副社長、社長代行(デピュティプレジデント)を経て、2001年(平成13年)代表取締役社長に就任。2006年から2011年まで代表取締役会長を務めた。
日本コカ・コーラ時代は、缶コーヒーの『ジョージア』をテコ入れし、『爽健美茶』、『紅茶花伝』などのヒット商品を世に送り出すなど、その経営手腕が注目された。
こうした実績が買われて、魚谷氏は資生堂入りを果たす。
2013年(平成25年)、マーケティング統括顧問になり、1年後の2014年4月執行役社長、同年6月代表取締役執行役員社長に就任したという足取り。
人と人の縁、つながりには誠に興味深いものがある。
魚谷氏は日本コカ・コーラ会長時代、NTTドコモ首脳から、「うちにはマーケティングに強い人材が余りいないので、手伝ってくれないか」と誘われたことがあった。
当時、NTTという親会社があり、その子会社として携帯電話会社のNTTドコモがあった。株式を上場していたNTTドコモは、ガバナンス(企業統治)をどうするかといった課題に対処するため外部の有識者を集めたアドバイザリー会議を開設。
このアドバイザリー会議の座長を務めたのが福原義春氏(当時、資生堂名誉会長)であった。
福原氏の他にも、茂木友三郎氏(現キッコーマン取締役会議長、名誉会長)や、武田國男氏(元武田薬品工業社長、会長、今年6月逝去)ら錚々たるメンバーがこの会議に参加していた。
魚谷氏もNTTドコモの経営上の課題やマーケティングについての提言をまとめ、それを提出するために、2回ほど東京・銀座の資生堂本社に座長の福原氏を訪ねていた。
「まさか、その時に自分が資生堂で社長をすることになるなんて、全く思っていなかったし、福原さんもおそらくそう思っておられなかったと思います」
魚谷氏は自らの来し方をこう振り返りながら、〝人の縁〟の不可思議さについて考えさせられるものがあると語る。
後に資生堂入りした魚谷氏は、『世界で勝てる日本発のグローバルビューティーカンパニー』を標榜し、改革を打ち出していくことになる。
いつの時代も、課題を解決するのは『人』
構造改革にはこれで終わりというものはない。常に実行し続けるものだ。魚谷氏はコロナ禍の2021年初め、ヘアケアブランドの『TSUBAKI』などを展開していた日用品事業(トイレタリー)を英国系の投資ファンドに売却。
資生堂のシンボルである『花椿』をブランド名に冠した『TSUBAKI』はかつて、ヘアケアで国内シェアトップを誇ったが、当時はシェア4%台まで低下していた。
化粧品とトイレタリー、研究開発、流通、広告宣伝の方法にも違いがあり、今後、高級化粧品で勝負していくという中長期計画中での、トイレタリー部門売却という決断であった。
この売却は、トイレタリー関係社員に夢を持ち続けてもらい、自負心をもって働き続けてもらうためにと、新会社の設立に資生堂も一定の出資を担い、関係社員の雇用を見守るといったものであった。
また、中国事業の強化もこの時期に打ち出した。中国の経済成長と共に、中国国内の化粧品事業も拡大していく計画。ただ、コロナ禍を経て、米中対立の余波、さらには東京電力福島第一原子力発電所の処理水放出への反発で日中間に摩擦が生じた事も重なり、今は中国国内の化粧品事業も苦境が続いている。
こうしたこともあって、同社が発表した2024年上半期(1月―6月)の連結決算は純利益が前年同期比99.9%減の1500万円にとどまった。約200億円の構造改革費用を計上したことも響いた決算内容。
同社は、かつて中国人観光客による空港での免税品購買で潤ったが、今は大陸からのインバウンドもそう多くはないため、空港での免税品販売といったトラベルリテール事業、そして中国国内での事業の位置付けの見直しを進めていく方針だ。同時に欧米市場での売上増を図っていきたいとしている。
いずれにせよ、構造改革は常に進むもの。魚谷氏も、「こういう時こそ顔を上げて、チャレンジしていくことが大事」と強調。
グローバル化の中で同じ志をつないで行く
「企業も長い歴史の間に、山谷があり、アップダウンを経験します。いい事ばかりが続くわけではない。コロナ禍も経験した今、課題に誠実に向き合い、一歩でも解決に向かって動いていくことが大事」と魚谷氏は語る。
厳しい状況下で課題解決を担うのは、いつの時代も『人』。そして、人と人の出会いこそが『人』を育てていくということ。
魚谷氏が大学卒業後、社会に出て47年、約50年が経つ。この間、米国の大学院に留学し、グローバル市場を見据えた視点で仕事をしてきた中で、幾人ものメンター(助言者)と出会い、アドバイスを受けてきた。
プロの経営者としてグローバル経営を志向してきた魚谷氏にとって大事なメンターの1人が椎名武雄氏(1929―2023、元日本アイ・ビー・エム社長、会長)である。
椎名氏は1975年(昭和50年)45歳の若さで日本IBM社長に就任。1993年(平成5年)までの18年間、社長として同社を牽引した。
1980年代は日米貿易摩擦が激しく、自動車、電気機械などの分野を中心に、日米の政府間で産業構造をめぐって激しい論争と交渉が繰り広げられた。
コンピュータ産業界でも、まだ国産系、外資系という言葉が使われ、両社は激しくシノギを削っていた。明朗で朗らかな人柄の椎名氏は、べらんめえ調の話し言葉も加わって日本の経済人の間でも人気があった。
『Sell IBM in Japan(日本にIBMを売り込め)Sell Japan in IBM(米IBM本体に日本を売り込め)』という言葉を創ったのも椎名氏。日本のグローバル化の走りに、この言葉は啓発的なものとして、多くの人の心を揺さぶった。要は、双方の対話が大事だということである。
魚谷氏は、この椎名氏の対話哲学に感銘を受け、氏との交流を重ね、教えを受けたという。
2001年に26年ぶりの日本人社長として、日本コカ・コーラ社長に就任後も魚谷氏は、『Sell Coca-Cola in Japan(日本にコカ・コーラを売り込め)Sell Japan in Coca-Cola(コカ・コーラ本体に日本を売り込め)』を標榜。
「僕も、椎名さんと同じ志でやっていきたいという気持ちをコカ・コーラ時代は述べさせてもらいました」。
若い世代に伝えたいこと
DX(デジタルトランスフォーメーション)が進み、生成AI(人工知能)の活用がなされる時代だが、「やはり人が中心の社会」という魚谷氏の認識。
「これから世代が変わり、若い世代になっても、その価値観の在り方は変わるかもしれないけれども、根底にあるものは変わらない。人を幸せにしようとか、人のために役に立とうとか。これはいつの時代も変わらない人の気持ちだと思うし、それが会社や社会を発展させていく原動力になると思います」
魚谷氏がこうした人生観・経営観を持つようになった原点は、青少年期にある。
奈良県五條市の出身の魚谷氏。地元の小、中学校を経て、高校進学の際、ミッション系の大阪星光学院高等学校に進学。通学には近鉄南大阪線と徒歩で片道1時間30分を要したが、「楽しい学園生活でした」と振り返る。
「型破りな英語の先生に出会いまして、その人の魅力で僕は英語の勉強を始めたんですよ」。
同志社大学英文科でも、米国帰りの先生と出会い、米国への留学熱を高めた。
小学生時の授業で唯一覚えているのは、「『社会の役に立ちなさい』という先生の言葉です」と言う。
幼少期に年長者、特に親や教師から受ける言葉は、人格・資質形成に大きな影響を与える。
「はい、心に響くようなつながりと言いますかね。それを大事にし、若い人たちにその事を伝える役割が今の僕にはあるのだと思います」
昨年、魚谷氏は病を得た。すでに後継を藤原憲太郎氏(1966年生まれ、現社長)に託す体制を取り、年末に自らは会長職を退く。
経営の第一線を退いた後の自らの生き方を考えた時に、「若い人に大事なことを伝えたい」と、昨年、社内大学の『Shiseido Future University』を設立。
魚谷氏は、『Calling(コーリング、天職という意味)』という言葉を使い、「今、その言葉の意味を噛みしめている所です」という心境を明かす。
人と人のつながりを深めていく営みが今後も続く。