白井さゆり・慶應義塾大学総合政策学部教授「物価目標2%を5年で総仕上げする。これが植田総裁の発言のポイント」

「植田さんの発言から、何が金融政策の『本質』なのかを見極める必要がある」─こう話すのは、元日本銀行審議委員で慶應義塾大学教授の白井さゆり氏。4月に日銀総裁に就任した植田和男氏。最初の政策決定会合は「現状維持」。当面は金融緩和が続きそうだが、白井氏は「日銀は2%の安定的実現にコミットしているので、であればどう実現するのか情報発信を工夫していくことが重要」と指摘。今後の金融政策の方向性をどう見るか─。

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日銀と市場のズレはなぜ生じるか

 ─ 日本銀行総裁に植田和男氏が就任し、最初の政策決定会合を終えました。白井さんは日銀審議委員も務めた経験から、今後の政策の方向性をどう見ていますか。

 白井 日銀の金融政策に行方について、市場では様々な意見が交錯しています。植田さんが何度も、これまでの金融政策の副作用に言及していることもあって、市場には早期修正観測が今でもあります。年内に修正すると見方もまだ多いようです。

 一方で物価目標2%の達成も目指しているので、現状維持が長く続くとの市場の見方もあります。この点、植田さんの発言の本質を見るべきだと思います。

 ─ 白井さんは何が本質だと?

 白井 ポイントは「金融政策の目的は何か」ということです。植田さんは2月の国会での所信表明でも、就任会見でも、この点を最初に触れています。

 新日銀法が施行されたのが1998年ですが、この時に金融政策の目的として「物価の安定」が掲げられました。過去、どの国の中央銀行も政府の管轄下にあって利用されることがあり、その結果として物価が不安定になるという歴史を繰り返してきたのです。日本も戦時中、軍事費用を大量の国債で賄ったことなどもあり、ハイパーインフレを起こしました。

 しかしこの40年ほどの間に、世界では金融政策は政府の影響を受けて決定してはいけないと考えるようになりました。国民のことを考えた時に一番経済的に良いのは、物価が安定することです。一時凌ぎで政府の財政支出をファイナンスするようなことに利用されると、物価は不安定になりますから。

 ─ 金融政策の基本は物価の安定であり、それを実現するには何がポイントだと考えますか。

 白井 植田さんは就任会見で、「98年の新日銀法施行以来25年間、物価安定の達成は積年の課題」と強調したのです。この物価安定の定義は13年1月に政府と日銀の共同声明の下で2%と定義されました。それを今も踏襲しています。

 この2%は米国、英国、カナダ、ECB(欧州中央銀行)も採用している国際的基準です。この実現が未達成なので、任期の5年間で総仕上げをするというのが植田さんの約束です。どの中銀にとっても物価の安定が一番重要です。それをないがしろにして政策調整をするのは中央銀行法で与えられた使命からみて難しいと感じています。

YCCの修正をどう見る?

 ─ 足元で物価は上昇していますが、コストプッシュによるものですね。

 白井 はい。現在のインフレは6割が食料、1割が外食といった外部要因なのでインフレは長続きしません。すでに契約通貨建て輸入物価は下落方向にあるので年末には2%を下回る可能性が高いと思います。物価目標2%の実現は、需要、賃金、企業利益が増える経済を実現しなければいけない。植田さんはそうしたインフレをつくりたいとおっしゃっているわけです。

 ─ 前総裁の黒田東彦氏の10年間でも、物価目標2%は達成できませんでした。

 白井 内需と賃金の上昇による2%の達成は非常に難しい。目一杯金融緩和をした黒田さんの10年間でもできなかったわけですから、さらに350万人の人口減少が予想される次の5年間で実現するのは大変です。

 しかも、金融緩和は最初に実行した時に、非常に大きな効果が出ます。日本で13年に行われた際も金利が大きく下がり、株価が大きく上がり経済成長率も高まりました。しかし、長期化すると徐々に緩和効果が薄れていくのです。

 植田さんは、物価の安定が実現できるまで金融緩和をする。長期化する場合は、副作用にも対応するとしています。ここがポイントであり、物価の安定に比重があります。副作用による政策修正の部分を重視し過ぎると日銀の見方とのズレが起きる可能性があると思います。

 ─ 物価目標、物価の安定が達成できない限り、金融緩和が継続される可能性があると?

 白井 政府との共同声明で2%を維持する限り、そう見ています。ただ、金融緩和は継続すると言っていますが、YCC(イールドカーブコントロール、長短金利操作)をずっと続けるとは言っていません。

 この点は慎重に言葉を選んでおり、わかりにくさがあります。

 おそらく、今は副作用がそこまで大きくないものの、今後どういう形で起きるか想定できない、ですから緩和は続けるけれども、YCCではないやり方に修正する可能性を示唆しているのではないかと。政策の手を縛りたくないのだと思います。

 もう1つ、市場が早期修正観測を続ける背景にあるのが、22年12月に日銀が10年金利の変動許容幅を0.25%から0.5%に上げたことです。当時、国債市場の歪み、機能低下に対処するためとしましたが、だとすると、今後も歪みや副作用が悪化したら、同様に変動幅を拡大するのか?と市場は見ています。

 ところが今後、変動幅を0.5%から0.75%、1%にすると、黒田さんが就任する前の金利と同じになってしまい、金融緩和と言えないのではないか?となる。ここが問題です。

 市場は、既に副作用が大きいので変動幅の拡大、10年金利から5年金利に目標の短期化を予想しており、それを正常化の方向として認識しています。しかし日銀は緩和を継続すると言っていますから、その考えが相容れるのか?ということです。

 ─ それでは、日銀はどういうスタンスで臨むべきだと。

 白井 早い段階で立場を明確化することが必要だと思います。つまり、2%目標を重視するなら需要に基づき物価の基調が改善するまで緩和を維持する方針に徹する。副作用への言及はややトーンダウンしないと、市場に政策変更期待が続くわけです。 

 個人的には、金融政策は景気変動に合わせて柔軟に調整できた方がいいので、政府と相談して2%の目標をたとえば1~3%といったレンジに変更することも一案だと思っています。

 難しいのが、黒田さんが総裁を務めた10年間の実質経済成長率は0.5%で、これは潜在成長率とほぼ同じです。経済成長率は需要、潜在成長率は供給を表していますが、この数字から日本はほとんど成長していないことが分かります。

 ─ 要因をどう見ますか。

 白井 内需が弱いんです。家計の実質消費は10年間平均するとほとんど増えていません。

 供給は、資本ストック、技術革新、労働力、労働時間で決まります。しかし、高齢化によっていくらシニア層などが働いても労働時間は減るなど、労働投入が下押しをしています。

 また、企業が設備投資をし、それが蓄積されて資本ストックになりますが、設備投資は増えていても減価償却を除いた資本蓄積にはあまり寄与していません。技術革新も若干伸びているだけなので、0.5%の潜在成長率にとどまっているのです。

 この状況で需要を高め、賃金を上げるのは簡単ではなく植田さんの任期中、金融緩和が続く可能性があるというのは、以上の要因からです。

 もう1つ、良し悪しはともかく、民間の内需が弱いと政府支出が重要になってきます。例えば、政府が補助金を出して電気料金の負担を減らしているのも、景気対策が頻繁に打たれるのも、内需が弱く景気回復力が弱いからとも言える。効果を考えて対象を絞る必要はありますが、今後もある程度の財政支出をせざるを得ないと思います。

 元米財務長官のローレンス・サマーズ氏なども、非伝統的な金融緩和は需要を十分に引き上げる力はなく、財政出動が必要だと強調しています。 

ゾンビ企業という言葉遣いは…

 ─ 政府が需要をつくる必要があるということですね。

 白井 先日、ある国際会議に出席したのですが、日本政府の方が「政府は今、一生懸命需要をつくろうとしている」と説明していました。

 例えば10年間で150兆円のGX(グリーン・トランスフォーメーション)投資の実現を掲げていますが、そのうち20兆円を「GX経済移行債」として国が調達して支出し、民間投資の呼び水にしようとしています。このように国が音頭を取っていくことは重要です。

 また、その政府の方は「賃金を上げていかないと、この国の未来はない」とも話をされていました。賃上げ、投資を含め、国が促していく必要があると。その際に、日本の弱い経済環境を考えると低金利が必要だけれども、永遠にそれが続かないかもしれないので、現状維持の間に手を打ちたいという言い方をされていました。

 ─ この低金利は、日本企業の新陳代謝を阻害しているということもよく言われます。

 白井 ええ。よく「ゾンビ企業」(実質的に経営がほぼ破たんしているにもかかわらず、金融機関や政府などの支援により市場から退出せずにとどまっている企業)という表現を聞きますが、中小企業の方々は生き残りに必死で、自分達がゾンビ企業などと思っていません。上から目線の言い方だと感じます。

 中小企業から見れば、低金利はありがたいわけです。ゾンビ企業をなくせば新陳代謝が進むという議論がありますが、東京でも空き店舗が埋まらない事例も多く、新陳代謝が進まないと多くの地方で企業も人も残らなくなりますから、廃れていってしまいます。

 地方のことを考えても、政治的には今後、金利がどんどん上がってしまうような状況は非常に難しいだろうと感じます。

「内向き」になった日本を脱するために

 ─ 日本の全企業数のうち99%が中小企業ですが、賃上げすら難しい企業も多い。

 白井 今回、政府が賃上げをプッシュしましたから、皆さん「やらなければ」ということで実行していますが、持続性があるかは分かりません。人口と働き盛りの労働人口がさらに減少していく中で、内需拡大と企業利益の改善の下で賃金上昇につながる好循環の実現が可能なのか、日銀も情報発信を工夫していくとよいと思います。

 一方、インフレが安定的に2%を実現する場合、金融緩和が正常化されているはずなので、長期金利が現在の0.5%以下から2%超に上昇する可能性があります。それが企業にとっていいのかは、簡単には言えないことだとも思います。

 さらに日本では大企業も若者も全体としては内向きになっている。上場企業を見ていても、果敢に世界で戦っていこうというところが少ないです。

 ─ 日本の上場企業の多くは海外で利益を上げているけれども、世界と勝負してやろうという気概が見えない?

 白井 ええ。中国や東南アジアの企業のダイナミズム、成長への意欲は非常にすごい。今のままでは意欲で負けてしまう。

 また学生も、私の身近なところで見ても、日本に来た留学生がさらに他国に留学するのに対し、日本の学生は海外への興味が薄いのが気がかりです。

 ─ 企業でも元気があるのはファーストリテイリングなど、オーナー系の企業ですね。

 白井 そうですね。これまで日本では「コーポレートガバナンス・コード」を導入し、社外取締役や指名・報酬委員会の設置などに取り組んできましたが、「稼ぐ力」にはあまり貢献してないように見えます。形式だけ海外のやり方をしても駄目だと感じています。もっと起業家精神、世界に伍していくぞという経営陣の意識と社員の意欲を高める工夫が必要だと思います。

 ─ 挑戦する意欲が大事だということですね。

 白井 そうです。上場企業はコードの導入以降、取締役会の構成や情報開示に時間をかけていますが、企業の稼ぐ力とはあまり関係がないように思います。

 日本はいま内向きでディフェンシブになっているように感じます。失敗すると「叩く世界」では政府も、企業も失敗しないように慎重になるため、変化への対応が遅れがちになる。

 日本のGDPの世界シェアは5%を下回り、低下を続けており、もっと世界に目を向けるべき。外国人、外国の企業がどんどん日本に入ってきて、競争が促進される環境が必要だと思っています。