日産自動車は2025年8月26日、フラッグシップスポーツカー「GT-R」の生産を終了した。本稿ではGT-Rの歴史を振り返ってみようと思う。まずは誕生の経緯を語ることにしたいが、そのためには、今を遡ること61年前の1964年5月2日に鈴鹿サーキットで開催された第2回「日本グランプリ」の“あの1周”に戻らざるを得ないだろう。
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日産は「GT-Rを愛してくれたファン」への感謝を込めたイベント「FOREVE“R” ~GT-Rファンは永遠に~」を開催。横浜の日産グローバル本社1階ギャラリーに歴代のGT-Rが集結した(本稿の写真は撮影:原アキラ)
「スカG伝説」の始まり
1963年5月3日に開催された第1回日本GPにプリンス自動車(のちに日産と合併)は、自慢の「スカイラインスポーツ」を新進気鋭のドライバー・生沢徹に託して出場したものの、トヨタ自動車「クラウン」や外国製スポーツカーに惨敗。その悔しさをバネに、翌年のGPに向けて4気筒エンジンを搭載した新型セダン・スカイラインの床を200mm伸ばした「スカイラインGT」(S54-B型)を製作したのだった。その長いボンネットには当時の「グロリア」が搭載していた1,988ccのG7型直列6気筒エンジンを押し込み、さらにウェーバーキャブレターを3連装着して125PS/5,600rpm、最大トルク17.0kgm/4,400rpmまでパワーアップしていたという。
必勝を期して臨んだ第2回日本GPだったが、そこに思いがけない壁が立ちはだかった。プリンスのエースドライバー生沢選手の友人だった式場壮吉選手が持ち込んだ、純レーサー「ポルシェ904GTSクーペ」の出場が急遽決まったのだ。式場選手自身は「カレラ2」の中古で出られれば、と思っていたのだが、前年にそのクルマで招待選手として参戦していたポルシェのフォン・ハンシュタイン男爵が、106台製造してアメリカに送る予定の904の1台を、式場選手用として日本に送ることを決めたからだ。
904GTSクーペがミッドに搭載する1,966ccの空冷水平対向4気筒エンジンは180PSを発生し、低く軽く(650kg)流線型のボディをいかして最高速度は263kmをマーク。1トン超で180km/hのスカGでは歯が立たないのだ。
ポルシェは前日のプラクティスで前部を破損したものの、FRPボディの右側フェンダーとライトを旅館の浴衣(真偽は不明だが)とプラスチックで整形し、セメダイン(接着剤)とテープで補修してスタート時間ギリギリに間に合わせた(生沢らもボディを押すのを手伝ったという)。
スタートから一気に加速して首位に立っていたポルシェに対して、生沢のスカGは次第に距離を詰めていく。そして、運命の7周目。なぜかそのレースに参戦していた(とっても)遅い女性選手のトライアンフがヘアピン手前でふらついているのを見て式場のポルシェは減速。その隙に2台をいっぺんに抜いたのが生沢だった。式場は「すぐに抜き返せたけど、まあ1周だけ」と思って後ろをついて行ったそうだが、グランドスタンド前を通過したら大歓声とともに観客は総立ちだったという。この瞬間が「スカG伝説」の始まりとなったのだ。
次の周で再び首位に立った式場のポルシェがそのままトップでゴール。ピットからの「ステイ」の指示を守って2位をキープして走っていた生沢は、なぜか同僚のスカGに抜かれて3位でゴールした。翌日のスポーツ紙の見出しは、「泣くなスカイライン、鈴鹿の華」だったという。
GT-Rの誕生
スカイラインはほぼそのままの形とエンジンを搭載して「2000GT」として市販化。カタログには、シックなセダンボディと内に秘める高性能の組み合わせを表現した「羊の皮を着たオオカミとでも言えましょう」の文字が踊っていた。
一方、1年置いた1966年の第3回日本GP(富士スピードウェイ)では、プライベートチームの「タキレーシング」が輸入したポルシェの新型レーシングカー「906」に対抗して、プリンスは桜井眞一郎氏をリーダーとして新型の純レーシングカー「プリンスR380」を開発。4台を投入するとともに燃料補給方法の工夫(重力式)が功を奏し、砂子義一選手のドライブでポルシェに勝ち、雪辱を果たすことができた。
R380が搭載した新型のGR8型1,996cc水冷直列6気筒エンジンは、1気筒あたり4バルブのDOHC24バルブとなり、スカベンジングポンプを使用したドライサンプ方式を採用して高性能化。翌年の第4回日本GPでは、プリンスは日産と合併したため「ニッサンR380」と名称を変え、またもやポルシェと対決した。
このエンジンをデチューンしたS20型エンジンを4ドアセダンのGC10型スカイライン2000GT(シングルキャブのL20エンジン)に搭載したのが、1969年の初代「スカイラインGT-R」(PGC10型)だ。
レーシングエンジンの血統を引くファン待望のS20型エンジンは、最高出力160PS、最大トルク18.0kgmを発生し、GT-Rの最高速度は200km/hに達している。1970年のマイナーチェンジに伴って、GT-Rはホイールベースを70mm短縮した2ドアクーペのハードトップボディのもの(KPCG10型)に変更されている。その四角いボディ形状から「ハコスカGT-R」と呼ばれているのがこの初代モデルだ。日本を代表する高性能車として、サーキットで50勝以上するなど輝かしい活躍を見せ、「スカG伝説」を確立した。
スカイラインが4代目(C110型)へとフルモデルチェンジしたことに伴って、1973年1月にはハードトップの2000GTをベースにした「スカイライン2000GT-R」、いわゆる「ケンメリGT-R」が2代目として登場。GT-Rの証である丸型4灯テールライトはこの世代から採用されている。
しかし、搭載するS20型エンジンが昭和48年の排出ガス規制に適合することができず、その年の4月末で生産・販売を終了。実戦に投入される機会もなく、総生産台数は197台(内195台を販売)という希少モデルになった。以降、GT-Rの名は、1989年のBNR32型GT-Rで復活するまで、長きにわたって封印されたのである。











