物質・材料研究機構(NIMS)国際ナノアーキテクトニクス研究拠点の大野武雄博士研究員、長谷川剛主任研究者、青野正和拠点長らの研究グループは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のJ.ジムゼウスキー教授と共同で、脳の神経活動の特徴である2つの現象「必要な情報の記憶」と「不要な情報の忘却」を1つの素子で自律的に再現する「シナプス素子」の開発に成功したことを発表した。同成果は、英国科学雑誌「Nature Materials」のオンライン速報版で公開された。

脳の神経回路は常に変化しているが、そのうちのシナプスの結合強度の変化は記憶に関する重要な仕組みの1つであると考えられており、脳型回路やその基本素子の開発におけるシナプス活動の再現は重要な課題となっている。従来までのシナプス動作は、トランジスタや抵抗・コンデンサなどを組み合わせた電子回路、そしてソフトウェアによるプログラミングによって人工的に模倣されていたため、人間によって設計された通りの動作しかできなかった。

図1 シナプス素子の模式図。(a)シナプス素子にパルス電圧を印加すると、硫化銀中の銀イオンが原子として析出し、ナノメータギャップ中に銀原子架橋を形成する。銀原子架橋の状態によってシナプス素子の結合強度は変化する。(b)神経回路中のシナプスによる信号伝達。活動電位がシナプス前細胞に到達すると神経伝達物質が放出され、それがシナプス後細胞に到達することでシナプス電位が発生する。シナプスの活動状態によってシナプス電位の発生の仕方は変化する

今回の研究で開発された「シナプス素子」は、金属電極とイオン・電子混合伝導体電極で構成されており、電気信号の入力頻度に依存したイオンの動きを利用し、電極間に形成される金属原子架橋の状態(シナプスの結合強度:コンダクタンス)を電気信号の入力頻度によって制御することが可能な素子で、低頻度(例えば20秒間隔)でパルス電圧を入力すると結合強度は一時的に増大し、その後初期値に向かい減少する。

図2 シナプス素子の結合強度の変化。(a)間隔20sec、振幅80mV、幅0.5secの条件でパルス電圧を繰り返し入力すると、コンダクタンスは一時的に77.5μS付近まで増加するが、時間経過にともない初期値に向かって減少する(=短期可塑性)。結合強度は信号の伝達効率を意味するため、電気回路におけるコンダクタンスと神経回路における結合強度は等価とみなすことができる。図中の点線は銀原子1個が白金電極に接触している状態を示す。(b)2sec間隔で数回のパルス入力を行った場合、高い結合強度が長時間持続される(=長期増強)

また、高頻度(例えば2秒間隔)でパルス入力を行った場合、結合強度の増大した状態が長時間持続するが、こうした変化は、神経回路におけるシナプスの結合強度の変化と一致し、それぞれ短期可塑性および長期増強に相当することが研究により判明した。

同シナプス素子の特性は、研究グループが以前から研究しているイオンと原子の移動を制御した素子「原子スイッチ」を用いて得られたもの。原子スイッチに十分大きな電圧信号を入力すると、硫化銀と白金の電極間に銀原子で構成された原子スケールの結合(銀原子架橋)が安定的に形成されるが、今回は、脳内のシナプス活動時に観測される活動電位程度の小さなパルス電圧をシナプス素子に入力することで、不安定な銀原子架橋の形成とその後の自然消滅を実現した。この場合の結合強度の変化は、シナプスの短期可塑性に相当するほか、パルス電圧の高頻度な入力は銀原子架橋の安定形成を誘発し、その結果として長期増強が発生するという。

図3 銀原子架橋の様子。(a)初期状態。電気信号の入力が無ければ銀原子の析出は無い。(b)短期可塑性の状態。銀原子が白金電極と接触していない場合の銀原子架橋は不安定なため、初期状態に戻ろうとする。(c)長期増強の状態。太い銀原子架橋は安定に存在する

また、今回の成果の重要なポイントは、シナプス素子が回路設計、他の電子回路およびプログラミングなどを一切必要としないことにあると研究グループでは説明している。

さらに研究グループでは、実験心理学における人間の記憶に関する二重貯蔵モデルを同シナプス素子を用いて再現した。シナプス素子への情報入力を頻繁に繰り返すと、情報を継続的に保存する記憶システムである長期記憶として保持され、入力頻度が低い場合は短期記憶が形成される。

図4 シナプス素子の記憶モデル。情報入力の高頻度な繰り返しは長期記憶を形成するのに対し(赤色の線)、低頻度な入力は長期記憶を形成せず、短期記憶となる(青色の線)。始めの数回の情報入力では記憶レベルはほとんど変化せず、感覚記憶に対応する。図2の結果はこの記憶モデルとよく一致しており、シナプス素子は人間の記憶に関する二重貯蔵モデルをよく再現できる

また、記憶された情報が時間経過とともに失われることを示す忘却曲線を実験的に得たほか、画像記憶のデモンストレーションを行い、記憶と忘却の仕組みの再現に対するシナプス素子の有用性も示した。

図5 シナプス素子を用いた画像記憶。(a)7×7に配列されたシナプス素子のアレイ中に入力頻度の異なる2つの画像を同時に記憶するデモンストレーション。アレイ中の個々の画素は1つのシナプス素子に対応する。(b)画像記憶の結果。入力間隔2secの文字"1"と20secの文字"2"を10回入力してからしばらく待つと、"1"は表示され続けたのに対し(=長期記憶)、"2"は消失した(=短期記憶)

将棋やチェスの試合で、短時間にすべての手を計算してしまうコンピュータと対等な勝負を人間ができるのは、人間が過去の経験に基づいた直感的な判断をしているからであり、シナプス素子は、この直感的な判断をするコンピュータの開発を可能とすることから、今回の成果はこれまでの人工脳型回路のデザインを大きく変える可能性を示したもので、研究グループでは今後、シナプス素子のネットワーク化を進める予定としており、単体で動作するナノスケールのシナプス素子を用いることで、脳内の神経回路と同様な3次元回路への集積化も容易になるとしている。