AM9:00 横浜発 京急線(快特)京急久里浜行
彼女はいつも金沢文庫駅でこの車両に乗り込んでくる。
空席があれば腰を下ろし、鞄の中から文庫本を取り出し、読書を始め、車内が混み合っているならば、扉付近に立ち、車窓から流れる景色をぼんやりと眺めている。
艶やかな黒髪、小さな顔。大きいのにキリッとした瞳、前を向いた特徴的な耳の形。
華奢だけれど、背筋をぴんと張った姿勢の良さから、彼女の内面の強さを感じ取れるような佇まい。
きっと僕は、彼女を一目見た瞬間から、恋に落ちていたんだと思う。
初めは、見ているだけで良かった。彼女と電車が同じだった日は、何となく一日を幸運に過ごせるような気がした。
その内、彼女がいつも決まった時間の同じ車両に乗る事が解ると、わざわざその時間の電車を利用するようになった。
僕は京急沿線にある大学に通っていた。彼女が乗ってくる金沢文庫駅から、大学の最寄り駅までの短い時間が、僕が彼女と共有できる唯一の空間なのだ。
そんな僕が彼女に告白する事を決めた。
まだ名前も知らない彼女にだ。
僕はこの春から大学4年生になった。
運良く就職先が早々に決まり、この路線を利用するのもあと1年かと思ったら、彼女に会える時間には限りがあるのだと急に不安になった。
彼女は僕よりも少し年上だろうかと服装から分析する。学生ではなさそうだ。
どこかに勤めているようだ。月曜日は休みらしい。その曜日は、彼女は電車に乗っていない。
このまま彼女に対する想いが膨れ続けたら、風船みたいに弾けて爆発してしまうだろう。既に職場がどこなのだろう?と彼女を尾行したい衝動に駆られている。
ヤバい。このままじゃストーカー道まっしぐらになってしまう。
危険な妄想に歯止めを掛けるためにも、僕は彼女に想いを告げる事を決意したのだ。
僕がホームに降り立つと、赤い電車は今日も彼女を乗せて去って行く。
突然の告白に彼女は戸惑うだろうか?
そりゃ戸惑うだろう。怪訝な顔をされて、逃げてしまうかもしれない。
僕は普通を絵に描いたような、どこにでもいる大学生だ。イケメンでもないし、服装が個性的な訳でもない。普通、普通、普通。
自覚しているだけに、いざ自己分析をすると空しくなってくる。
きっと彼女は、僕がかなりの格率で、同じ時間の同じ車両に乗ってるなんて、気付いていないだろう。
取柄のない自分を卑下しては駄目だ。
僕は彼女に告白すると決めた。決行日は今日だ。
週末、浦賀まで足を伸ばして、恋愛のパワースポットと言われている叶神社にお参りに行ったし、朝起きたら見事な青空が広がっていた。
星座占いは1位だったし、『運命を変える出来事が起こるかも』なんて意味深なお告げも頂いた。
駅までの信号は全部青だったし、自販機でジュースを買ったらもう1本当たった。
僕は今日ついている。
無敵のパワーがかなり来てる。
ていうか、そう思わないとやってられない。
ゴールデンウィーク明けの火曜日。
彼女は今日もいつも通りに、金沢文庫駅にていつもの車両に乗り込んで来た。
空いた席に腰掛け、鞄の中から文庫本を取り出す。何を読んでいるんだろう?甘い恋愛小説?それともニーチェとか?
斜向かいの席に座る僕は、時折彼女を横目で確認しながら、その時が訪れるのを静かに待っていた。
今日は彼女が降りる駅までついて行く。
電車を降りたら、思い切って声を掛けるんだ。頭の中で何度もシュミレーションを重ね、僕なりに台本を作ってみた。
成功率はゼロに近い。魅力的な人だから、彼氏が既にいるかもしれない。でも、振られれば、すっぱりと諦められる……多分。
途中、停車した金沢八景駅で、足元のおぼつかないお婆さんが乗り込んで来て、僕は席を譲った。つり革に捕まり、さりげなくストレッチをしている人を装い、後ろを振り向くと、彼女は文庫本を開いたまま、うつらうつらと頭を揺らしていた。
初夏を感じさせるようなの太陽の日差しが心地よい火曜日の朝。僕のすぐ後ろに彼女がいるのを感じながら、ぼうっと流れる景色を眺めていた。そして、不意に事件は起こった。
走行中、車両を繋ぐ連結部分の扉がガラリと開いた。
車内はそれほど混み合っていなかったので、何気なく、僕は扉の方を振り返った。
ピンクのランドセルを背負った小学生の女の子がそこに立っていて、一瞬、目が合ったと思った。
気のせいではなかった。彼女は僕を見ると、ぱぁっと表情を輝かせ、ずんずんとこちらに向かって歩いて来たのだ。
「大悟(だいご)くん、みぃつけた!」
まるでかくれんぼの鬼みたいに、歌う様にそう告げると、僕に抱き着いた。
「はっ? 何? 何で、俺の名前?え?」
しどろもどろになってしまったのは、無理もない。知らない女の子が、急に僕の名前を呼び、抱きついてきたのだ。
「えっと、君は誰かな?」
頭は混乱していたが、できるだけ冷静を装って、彼女の腕を解きながら、訊ねてみた。
彼女は、僕の問いは全く聞こえていなかったのか、思い切り無視をして、辺りをキョロキョロと見渡した。
「あのね、君__」
そう言い掛けた所で、「次は横須賀中央、横須賀中央」と車内アナウンスが入った。
女の子はハッとした表情で背筋を伸ばす。
電車が横須賀中央駅のホームに着いた。扉が開くと、女の子はぎゅっと僕の左手を握って、思い切り力の限りに僕を引っ張った。
突然の出来事に、僕は思わず体勢を崩し、そのまま電車を降り、ポンッとホームに弾き出された。
「ちょっと、何すんの!」
今日は一世一代の告白をする日__踵を返した所で、容赦なく、赤い電車の扉は閉まった。
「あ」
僕の間抜けた声を置いて、赤い電車は発車し、線路の向こうに消えて行った。
BEAMSで今日のための新しい服買ったのに、早起きして鏡の前で髪型作ったのに。小さな努力が泡となってしまった。
すっかり意気消沈した僕は、そのままホームのベンチに腰を下ろした。
「ねぇ、今日って西暦何年の何月何日?」
「は?」
気付くと先程の少女が、僕の隣に座り、「ねぇねぇ」と肘の辺りを突いていた。
何なんだ、この子は?僕のやる気バロメーターをゼロにした元凶の少女がニコニコしながら、上目遣いに僕を見ている。
はぁっと大げさに溜息を吐いて、ジーンズの尻ポケットに入ったスマホを取り出した。待ち受けを見て、日付けを確認する。
「2016年5月10日だけど?」
それが何か?
「ホント?ホントにホント?」
「嘘吐いてどうすんの?」
つぅか、君、誰?
「やった、やった、やったーーーー!!!!」
少女は両手を高らかに万歳をして喜んだ。2020年にオリンピックの東京招致が決まった時の、プレゼンチームの様な喜びようだった。
「あのさ、喜び中の所悪いんだけど、君、誰?何で俺の名前を知ってるのかな?」
子供が相手なのでなるべく優しくと思ったつもりが、ついとげとげしい口調になってしまった。
女の子はきょとんとした表情で僕を見た。
「ミオ、お兄ちゃんの名前呼んだかな?」
「さっき電車の中で思い切り、大悟くんって」
「へぇ、お兄ちゃん大悟くんって言うんだね。ミオは、『サトウミオ』っていう名前だよ」
少女はわざとらしくそう言って、答えをはぐらかした。
それにしても苗字が一緒とは、まだ会った事のない遠い親戚の子だろうか?何となく、彼女の顔に見覚えがあるような気がしてならない。
いや、考え過ぎだ。日本津々浦々、どんだけのサトウさんがいると思ってるんだ。頭を振って邪念を飛ばす。
「君、学校に行かなくていいの?」
「君じゃなくてミオだよ。ミオ、学校行く途中に具合悪くなっちゃって……、ねぇ、大悟くん、ミオ、海が見たいな。海を見たら具合良くなるかも!」
全然、具合悪そうに見えないんですけど。むしろ溌剌としてね?
小学生のくせにランドセル背負ったまま、サボリかよ?全く、親の顔が見てみたいわ。
「海!海!海!」とエアドラムを叩いているような仕草で、ミオは僕の腕を引っ張る。
何なんだ、この馴れ馴れしい子供は!告白を邪魔された事もあり、少し腹立たしい気持ちもある。
ホームの先、広がる青空を仰いだ。何ていい天気。
こんな日があっても、まぁいいか。僕は重い腰を上げた。
駅を出、通りを歩きながらミオと2人、三笠公園にやって来た。
公園の中心に建つ、東郷平八郎の像を背に、その周りを囲むベンチに腰を下ろして、目の前に広がる海を眺めている。
右手には、東郷平八郎が司令長官を務めた戦艦「三笠」が停泊し、一眼レフカメラを持った男の人が熱心に写真撮影をしていた。
「三笠」の奥にある三笠桟橋から、東京湾に浮かぶ唯一の自然島である猿島への船が、観光客を乗せて出航した。
自分も大学1年の夏休みに、友達とBBQをしに、猿島に行ったなと、船尾が描く波の線を遠くに眺めながら、当時を思い出していた。
隣に座るミオは、具合いの悪い設定はすっかり忘れてしまったのか、夏日のような日差しに、公園に着くなり、「アイス!アイス!アイス!」と騒ぎ出した。
仕方なく、ポートマーケットでソフトクリームを買い、今は満足そうな顔で、目の前のアイスに集中してる。
全く、調子が狂うな。
僕はアイスコーヒーを飲みながら、溜息を吐いた。
「お兄さんは、今日、好きな人に好きだって言おうとしてたんだ。ミオに邪魔されたけど」
だだっ広い海の前で、自分はちっぽけな存在だと改めて気付かされる。
僕は、地平線を眺めながら、そんなことを初対面の少女に吐露していた。
「知ってる。髪の長いきれいなお姉さんでしょ。いつも本を読んでる。さっき、大悟くんの後ろにいた」
彼女の返しは意外だった。
何で僕の好きな人を知ってるんだ?
「でも、ミオ、大悟くんにはあのお姉さんは釣り合わないと思うな。大悟くん、お猿さんみたいな顔してるし、イケメンじゃないし。美人のお姉さんと並んだら、皆、何でこの2人が付き合ってんの?って思うよ」
解っているだけに、第三者からそう言われると落ち込む。生意気な少女の見解は確かに正しい。
「俺の何を知ってるっていうんだ……」
思わず拗ねた口調でぼやいてしまう。
「知ってるもん!お片付け嫌いなとことか、大人なのに人参残すとことか。お料理出来ないとことか、すぐ泣いちゃうとことか、あとは_」
「ちょっと待って。なぜそれを知っている。お前、さては俺のストーカーだな?いつも俺をつけてるな?全く、今時の小学生は_」
「違うもん!」ミオは憤慨とばかりにすぐに否定した。
「大悟くんに、ママと出会って欲しくないだけだもんっ!」
勢いまかせに言い切った後で、ミオはしまったという顔をした。
「え?ママって……ミオはあの人の子供なの?」
まさかの子持ち?嘘だろ?
ミオは小柄だが、小学3、4年生くらいに思える。彼女に、こんな大きな子がいる様には見えなかった。
衝撃の事実が発覚した。この子は大好きなママに悪い虫が付かないように、僕を見張っていたのだ。呆然としたまま、僕は何も言葉を発せずにいた。
「大悟くん」
急に真面目な顔をして、ミオは僕の顔を覗き込んだ。「あの、その」と何度か話すのをためらったのち、「今からミオが話すこと、信じてくれる?それで、ミオのお願い聞いてくれる?」と真剣な眼差しを向け、訊ねてきた。
「お願い?無茶なお願いじゃなけりゃ……」と僕はぎこちなく頷いた。
ミオは微かに口元に笑みを浮かべると、背負っていたランドセルの中から、スマホを取り出した。
慣れた手つきで、スマホを操作し、「見て」と画像を差し出した。
「……これは?」
画面を覗き込んだ途端、僕の全身に鳥肌が立った。
<後編は、9月12日(月) 掲載予定>
その他の受賞作品はこちら
<京急グループ小説コンテスト入賞作>
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「京急グループ小説コンテスト」は、マイナビニュース、京浜急行電鉄、小説投稿コミュニティ『E★エブリスタ』が共同で、京急沿線やグループ施設を舞台とした小説を募集したもの。テーマは「未来へ広げる、この沿線の物語」。審査員は、女優のミムラ、映画監督の紀里谷和明などが務めた。
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