1960年代、高度経済成長時代の猛烈社員の典型が総合商社マンでした。夜10時過ぎから銀座のクラブで飲み始めても、丸の内の本社オフィスから呼び出しの電話が入ると、会社に戻って仕事に励んだのでした。今そんなことをしたら「ブラック企業」と言われるかもしれませんが、それでも当時のビジネスマンには情熱がありました。

燃料第2部の天才営業

別記事では、LNG(液化天然ガス)の日本での導入期における2人の経営者のお話をしましたが、今回はLNGを輸入販売した、総合商社の並外れた才能の営業マンのお話です。

1960年代の日本の高度経済成長期は、下表のように年率10%以上のGDPの伸びを示していました。それが1970年代半ばに入ると徐々に成長が鈍り始めました。「商社斜陽論」なる言葉が言われ出したのは、この頃ではないでしょうか。商社斜陽論とは、それまで海外との取引では、商社の情報収集能力と金融機能を頼みとして商社経由での輸出入を手掛けていたのを、直接海外と取引するという考えが出始めたのです。私の記憶では、鉄鉱石1トンにつき商社の口銭(手数料)は300円程度ではなかったかと思います(当時、為替1$が250円ぐらいでしたので、今とはかなり違うかもしれません)。

経済成長率推移

ある総合商社の鉄鋼部門の担当者から「鉄の生産量が1億トンを割ったら全然儲からないよ」と言われたものです。そのため、どこの総合商社も金のなる新規事業の開拓に躍起になっていました。三菱商事はいち早く「エネルギーを制する者は世界を制す」という確信の下に、東京電力、東京ガスのLNG長期輸入契約の仲介元として事業を立ち上げ、その後ブルネイのLNGプロジェクトでロイヤルダッチ・シェルと合弁会社を設立し、その配当収入で三菱商事全体の利益の半分を稼ぎ出していました。

その三菱商事のLNG国内販売の牙城に、果敢に立ち向かった総合商社がありました。今は社名が双日となった当時の日商岩井という会社です。日商岩井ではLNGは燃料第2部が担当していました。スタッフは10名近くいましたが、インドネシアの輸出元と購入元との交渉から、複雑な契約書作成、さらには利益管理まで、38歳ぐらいのA主任が1人でプロジェクトを全て取り仕切っていました。まだワープロやPCが普及する前でしたから手書きで企画書を作るのですが、その見事さには感心させられました。

日商岩井は東京地区を三菱商事が押さえているため、関西以西に活路を求めました。A主任の孤軍奮闘により日本国内におけるLNGシェアは三菱商事55%、日商岩井45%程度まで食い込むことに成功しました(数値はA主任の話による推定値)。 正にLNGを1人で売った天才営業といえるでしょう。

A主任がある日、私をビル1階にある喫茶店に呼び出しました。「LNG船が入港する港を最適化するシステムを作ってくれ」と。さらに彼は続けました。「来年、再来年とさらにLNGの取引量が増える。基本設計図の原案はもうこちらで用意してある。誰にも言うなよ」と言いながら、A3版の用紙にぎっしり手書きで記述された配船シミュレーションの仕様書を私に見せたのです。

横浜、名古屋、大阪、北九州の4港のLNG基地のLNG在庫量(減り方が季節とLNG基地で異なる)、日本までの航路の天候予測、4港の到着予定日の天候、着岸埠頭の他のLNG船の使用予定(港での待機中は係留コスト発生)、その他、港湾労働者の手配、LNG船の燃費、喪失LNG量(ボイルオフ)、LNG船(8隻を運用)の経年劣化等の諸条件(ドックに入れての定期保守が必要)で最も経済性を得られる港を、積出港から日本までの航路区間ごとに定期的にシミュレーションして、日本から1,000kmの海域で決定するというものでした。

LNG船1隻が到着すると、日商岩井にはかなりの口銭が入りましたので、年間100回程度の入港から逆算すると、1営業部としては日商岩井内でも群を抜く収益源でした。そのため、この開発には数億円かけてもいいと裏打ちされたのです。喜び勇んで早速会社(私の前職の会社B社)の上司に報告したにもかかわらず、「そんな難しいシミュレーション・システムいくらかかるか分からない」と提案に否定的でした。私はA主任に自社の状況を伝え、打開策を相談しました。

すると、A主任は「馬鹿だなあ、B社しかできないと思って相談したのに…。いいかい、今回の開発はブランド力が必要なんだよ。B社が開発した配船シミュレーション・システムで運用しているからLNGコストを最小化できる、というセリフで顧客を切り崩すんだよ。はい、もう1回検討して。君の会社は『いいから、僕に、任せなさい』の略号の会社だろ」と元気づけられました。

A主任はさらにブランド力を付けるために手を打ちました。米国ハーバード大学のロジスティクス理論に関する世界的権威の教授に、自分が設計した配船シミュレーション・ロジックの検証を依頼し、システム的な基本設計を依頼することにしたのです。私がいたB社でもようやく基本設計部分をハーバード大学が行うならと腰を上げます。私はもっと早い段階に全てB社で提案していれば、5億円の予算は全て獲れる自信がありましたが、即断できず競合を招いたことで、2億円程度に目減りしてしまいました(マネージメントは思い切った決断をできないと、ビジネスが最小になるという典型的な例です)。

一方で、A主任の商社マンとしての能力がずば抜けていたため、他の社員からのやっかみも激しく、A主任とリレーションの深い私が出した提案まで敵視されるようになりました。契約先選定では、反A主任派の面々はA主任が海外出張中に彼らが推すC社案を部長に上申し決裁を仰ごうとしました。部長は雰囲気を感じ取ったのか、A主任抜きでの決裁はしないとはね付けました。当時はインターネットもないので海外出張中のA主任とは連絡も取れず、数週間後A主任が帰国し、すぐにいきさつを伝えると、A主任は「やり方が汚いな。まあ心配しなくていいよ」と言って、反対派のC社案を数日の内にあっさりと蹴落としました。

燃料第2部長(後に役員に昇進)もA主任に全幅の信頼を寄せていたから、A主任の裁量に任せたのだと思います。一連の契約までの流れは、正にテレビドラマを見ているような感じでした。経済の表舞台には名前は出てきませんが、総合商社のこのような天才営業がいて世界最大のLNG輸入国が誕生し、クリーンエネルギーの世の中が形成されていると思うこの頃です。

本記事は、アイ・ユー・ケイが運営するブログ「つぶやきの部屋」を転載したものになります。

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