皆さんの会社の社長は、周りの役員が全員反対でも自身の信念を貫けるでしょうか? 会社の魅力とは何でしょう? 私が思うに経営者の卓越したリーダーシップと人心に響く理念ではないかと思うのです。そんな信念を貫いた二人の社長についてのお話です。

役員全員反対の中、押し通した英断

みなさんはLNG(液化天然ガス)という言葉を耳にしたことありますよね? 都市ガスの家庭のガスは、基本的にLNGを使っています。家族4人の家庭で1立方メートル(1mの立方体)のLNGがあれば、年間のガスが賄えると言われています。1950年前後、日本のエネルギーの50%は石炭でした。国内最大生産量を誇った三井三池炭鉱(福岡県)では、石炭需要の好景気を背景に「月が出た出~た、月が出た。あ~よいよい。三池炭鉱の上に出た。あんまり煙突が高いから、さぞやお月さん煙たかろ。さのよいよい」という威勢の良い節で有名な炭坑節まで作曲され、炭鉱夫たちは毎夜これを仲間と歌いながらの晩酌で、疲れた体を癒したと言われています。

日本各地の石炭産業保護の観点から、日本政府はガス会社に国内炭の使用を義務付けていましたが、エネルギー需要はGDPの成長率を遥かに上回る速さで増大していました。この変化に対応すべく、戦後中東で開発された石油が、エネルギー源として全世界で位置づけられるようになりました。他のガス会社が石油化を進める中で、東京ガスは石油と並行して埋蔵量の豊富なLNGに着目していました。しかし、島国でパイプラインが使えない日本へのLNG輸送は、摂氏マイナス162度を維持することが必要なため、冷凍技術や専用船の建造技術などの課題が解決できず、また世界のどの国も試行過程にあり完全には実用化できていませんでした。

東京ガス社長 安西浩

そんな中、1957年に米国の石油会社から東京ガスにLNG利用の打診が入ります。LNGの低公害性と高カロリー燃焼の可能性をいち早く評価していた、時の東京ガス副社長・安西浩(後に社長)は強いリーダーシップを発揮します。早速LNGの本格利用に向けて、自らフランスと英国にLNG利用状況の調査に赴いたのです。英国で一部開始されていたLNGを使った都市ガス供給の仕組みを基に、実現化の自信を深めた安西は、社内を調整し1960年10月にLNG導入を正式決定しました。

この決定を知った複数の米国石油会社が、東京ガスに対してLNGの売り込みを掛けて来る中、東京ガスは輸送コストの観点からアラスカ産LNGの輸入を採用しました。しかし契約には、更に高い障害が立ち塞がりました。当時のLNG単価は石油の1.3倍であり、更に輸出元でも輸入元でも莫大なLNG基地のための設備投資と運用費用が必要だったのです。これらを回収するには高い運用効率が求められますが、東京ガス単独の輸入量ではスケールメリットが出ませんでした。

東京電力社長 木川田一隆

そこで安西は東京電力社長の木川田一隆に申し入れます。「一緒にLNGを輸入しましせんか?」と。時に東京オリンピックの翌年の1965年7月のことです。東京電力もまた増大する電力需要に対応すべく、多くの設備投資が必要となっていました。安西からの申し入れを受けた時、東京電力は横浜市根岸に重油火力発電所の建設を計画していました。この時、二つの偶然が重なりました。それは大気汚染の問題から、当時の横浜市は重油による火力発電所建設を認可しなかったのです。二つ目は東京電力の建設予定地が、東京ガスの新設ガス工場予定地の隣ということでした。

東京電力の木川田は安西の考えに理ありと判断し、社内での導入検討を命じたのです。しかし、東京電力の役員は全員反対したと言います。理由はLNGによる発電が世界で前例がなく、LNGの価格が重油に対して割高なこと、そして何よりも安全面での懸念でした。木川田は公害対策にはLNGによる解決が唯一の方法であることを、粘り強く他の役員に説得していきました。中々説得に応じない役員もいた中、最後は「これは私の責任でやる」と決定しました。現在のコンプライアンス至上主義の会社経営の中では非常に難しいのでしょうが、木川田の根拠に基づく強い信念には魅力を感じます。

こうして安西の提案から1年後の1966年6月に、東京電力は東京ガスの提案を正式に受諾しました。実に東京ガスの輸入量の3倍に上る輸入量となります。この東京ガスと東京電力という首都圏のガス・電力を供給する会社のLNG共同事業成立により、横浜市は発電所の建設を承認しました。そして1967年3月に関係者の間でLNGの売買契約が締結されました。契約期間は1969年から15年間、取引量は年間96万トン(東京ガス24万トン、東京電力72万トン)、LNG船の年間航海数は32航海と定められました。

東京ガス根岸LNG基地

横浜市根岸の世界最大のLNG基地では、世界で初となる様々な技術が導入されました。例えば、1万キロリットルの地下埋設型の大型超低温タンクは金属二重殻式構造を採用し、内層材料には低温において強度と靱性を有する9%ニッケル鋼、外層材料にはSS41という鋼材を使用することで強度と安全性を確保しました。この2種類の金属の溶接は当時珍しく、磁気の排除処理も含めて高い溶接技術が求められたため、9%ニッケル鋼の溶接には延べ25,000人、アルミ溶接には延べ19,000人の溶接工を注ぎ込んだと言います。また都市ガス用(20kg/c㎡)と発電用(8.5kg/c㎡)の送出圧力の違いから、調整は至難を極めましたが、伝熱管の形状変更によって解決しました。両社が共同運用することで思わぬ運用効率の向上ももたらしました。東京電力敷地から供給する海水を東京ガス側に送出し、LNGの気化によって冷却された大量の海水を、発電用の冷却用水として東京電力側に戻す仕組みが構築されたのです。

独特の形状をしたLNG船

こうして1969年11月4日にアラスカからLNG専用タンカー「ポーラアラスカ号」が、LNGを満載にして東京ガス専用埠頭に着岸されました。その後1972年には大阪ガスもLNGを導入しました。徐々にLNGへの移行が促進されます。また当時はLNG船を国産造船会社はまだ建造できませんでしたが、LNGの需要増加に伴い1981年に川崎重工が国内初のLNG船を建造し、その後三菱重工業も建造するようになり、今では世界のLNG船の30%を日本の造船会社で建造するようになって、造船業界への副次効果も与えました。

現在日本は世界最大のLNG輸入国となり、年間約1億トン近くを輸入しています。不況に苦しむロシアが北方領土返還をチラつかせながら日本にすり寄るのは、LNGを買ってもらいたいことと日本の先端技術移転を希望しているからです。いち早く石油からLNGに切り替えていったことで、日本の環境維持に大きく貢献しました。理由は石油に比べて気化時に不純物が取り除かれるため、LNGが燃焼した際に硫黄酸化物や一酸化炭素といった有害物質を発生させないからです。LNGの将来性を見抜いた東京ガスの安西浩の卓越した慧眼と東京電力を巻き込んだ経営戦略、それに自分の信じる道に責任を以て挑んだ東京電力の木川田一隆の熱き信念には感動させられます。

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本記事は、アイ・ユー・ケイが運営するブログ「つぶやきの部屋」を転載したものになります。

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