カリスマ経営者、変態的思い込みの創業者、成功と失敗は紙一重。その中で、何故か、他人が助けてくれる、チャンスをくれる経営者がいますよね。頭がいいのではなく、分かりやすく言えば、ワンピースのルフィのような存在。揺るぎない信念、仲間を大切にするリーダー・・・共通して言えることは。

気骨ある経営者

出光佐三

偉業を成し遂げた日章丸

本日は、作家・百田尚樹 原作の「海賊とよばれた男」のモデルとなった出光佐三のお話です。普段、何気なく立ち寄るガソリンスタンドですが、その中に出光興産という会社があります。石油元売り会社の中では、珍しくメジャーオイルとは一線を画す元売り会社です。つい最近では昭和シェル石油との合併問題で創業家が反対を唱え、合併が揺らいでいます。個人的には、私も合併しないでほしいと願っています。

佐三は神戸大学を卒業後、小麦粉と油を扱う小売店に丁稚として就職します。同大学の卒業生は海運会社や役人になるのが一般的だったため、同級生からは名もない小売店に就職した佐三は大学の面汚しと批判を浴びました。しかし、佐三には如何に消費者に安く良い製品を直接届けるかという、士魂商才の高潔な志がありました。就職してから間もないある日、佐三の学生時代の家庭教師先の資産家である日田重太郎から人柄を見込まれ、資金8,000円の提供の申し入れを受けます。その日田からの申し入れが振るっているのです。「利子も要らない。また、事業の報告もしなくてよい。君が好きに使え。ただ、独立を貫徹すること。そして家族仲良くやってくれ。ただそれだけだ」というのです。佐三25歳のことです。その申し入れを受け入れた佐三は、九州門司に社員数名の出光商会を設立しました。

山口、小倉、門司での漁船向けの灯油の販売は、現地に既にある業者によって暗黙の縄張りが敷かれ、佐三の店は灯油の販売ができませんでした。佐三はそのような中で、灯油よりも価格の安い軽油に目をつけます。

他の業者が文句の言えない海上で、深夜に帰港する漁船に軽油を売りさばいては、さっと消えていったのです。このことから佐三は海賊と言われるようになりました。佐三はその後、満州にも事業進出します。満州鉄道の列車の潤滑油はメジャーオイルが独占していました。そこで佐三は寒冷地でも他社より凍りにくい潤滑油を独自に開発させ、氷点下20度の中、顧客の目の前でメジャーオイルの潤滑油と自社の潤滑油を比べさせたのです。「どうです、わが社のオイルだけが凍りませんよ」と言って顧客をうならせました。こうして佐三は、並み居るメジャーオイルの市場を次から次に奪い返していきました。正に今聞いていても日本人として胸がスカッとする話です。

しかし大東亜戦争の敗戦で、出光商会には莫大な借金と1000人の従業員が残されました。それでも佐三は従業員を一人も解雇しませんでした。「社員は家族であり、家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができようか。会社を支えるのは人であり、これが唯一の資本であり今後の事業を作るのだ。人を大切にせずして何をしようというのか」というのが、佐三の強い理念だったからです。現代のリストラ至上経営者に聞かせたい言葉です。佐三は終戦2日後に希望を失った社員に対して訓示を述べます。「三つのことを申し上げる。一つ、愚痴を止めよ。一つ、比類なきわが国三千年の歴史を見直せ。一つ、今から建設にかかれ」と言うと共に、自分自身に社員全員を絶対守ると心に誓ったのです。

ラジオの修理、印刷作業、漁業など、考えられるありとあらゆる仕事を請け負いました。その中に危険で他社が嫌がる、石油タンクに残った石油のカス(スラッジ)汲み出し作業がありました。しかし出光興産(戦後社名変更)だけは、積極的に請け負いました。そして出光興産社員もみんな嫌がらず、ふんどし姿でタンクに入り、黙々とその作業に当たったと言います。それは社員が佐三の理念に感銘を受けていたからだと思います。こうして戦後の苦難の時期を凌ぎ切った佐三でしたが、敗戦で落ち込む日本人に最も希望と勇気を与えたのが日章丸事件です。それは昭和28年(今から63年前)に発生しました。当時、イランの石油は生産設備を英国が建設していたため、権利は全て英国が押さえ、イラン国民は世界最大の産油国でありながら、貧しい生活を強いられていました。正にGHQに統治されていた日本と同じ状態でした。

そのような困窮生活に耐えかねたイラン政府は、イランの石油事業を国有化すると宣言し、1951年に生産設備を接収してしまいます。これに激怒した英国は軍艦を派遣し、ペルシャ湾を封鎖します。そしてイランから石油を買う船はいかなる措置も取る(撃沈する)、と世界に宣言しました。実際にイタリアのタンカーは英国海軍に拿捕されました。GHQの政策により、日本の石油元売り会社(日石、共同石油、伊藤忠など)は、メジャーオイル(エッソ、モービル、シェルなど)との不利な提携条件の下で石油の供給を受けましたが、出光興産だけはメジャーオイルの傘下にならず、独自の供給元から石油を仕入れて販売していました。

出光興産はイランから石油を買えないか検討に入ります。そこには佐三の主権回復後もなお独自の石油政策を持てない日本への憂いと、また欧米の搾取に苦しむイラン国民と日本人が、重なり合って見えたことも影響しました。そして誰もが無理だと考えたイランからの購入を、佐三は決断します。勿論その決断までに国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形で必要書類を作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など、準備を入念に整えた上での判断です。

石油販売会社が、当時としては世界最大のタンカー日章丸(船自体は二代目の船)を建造すること自体異例でしたが、佐三は迷わず建造させました。そしてイランに決死の思いで受け取りに行く日がきます。英国への情報漏えい対策のため、インド洋上で日本からの「イランのアバダン港に向かえ」との暗号無線を最後に、日章丸との交信は絶たれます。佐三の回想録によると、神戸港から出発する時もほとんどの乗組員はサウジアラビアに行くと伝えられていたので、佐三はひょっとしたら彼らは暫く帰れなくなるかもしれないと、見送りに来ている乗組員の家族たちに申し訳なく思ったそうです。

ペルシャ湾に入ったところで、日章丸船長の新田辰三は乗組員に訓示を力強く述べます。「我々はこれからサウジアラビアではなくイランに向かう」と。乗組員はさぞやびっくりしたことでしょう。英国軍艦が砲撃しないとも限らないからです。そして日本を出て1か月後の昭和28年4月10日に、英国海軍の監視の目をかいくぐり、ペルシャ湾の最も奥に位置する、イランの石油積み出し基地のアバダン港にたどり着きます。その時、港に集まった多くのイラン国民は、日の丸の旗と大歓声で日章丸を迎えました。

この知らせは瞬く間に武装を持たない日本の一民間企業が、当時世界第二の海軍力を誇っていた英国海軍に喧嘩を売った事件として報道されました。一方、日本国内では出光佐三の英断と勇気に熱狂しました。国際世論が注目する中、日章丸は浅瀬や機雷などを回避し、イギリス海軍の海上封鎖を見事に突破して、5月9日9時に川崎港に奇跡の帰港を果たします。海図のない海域を航海した、日章丸新田船長の類まれな操船技術にも感服させられます。

英国は早速外交ルートで日本を非難すると共に、東京地裁に石油の所有権は英国にありと提訴しました。しかし、僅か3週間で棄却され出光興産の勝利が確定しました。この結果、これまで価格を意のままに操っていたメジャーオイルの石油価格が低下すると共に、日本国民に出光佐三の気骨ある精神が大きな希望を与えました。

エピソード

「国のため、ひとよ貫き、尽くしたる、君また去りぬ、寂しと思う」

これは昭和天皇が出光佐三の追悼に寄せた歌です。日本人としての誇りを最後まで持ち続け、国を愛した男を昭和天皇も心から称えたことが窺われます。

出光佐三が亡くなってから35年が経ちますが、出光佐三の生き方は今も色褪せず、日本人にやる気と希望を与え続けているのではないでしょうか。

本記事は、アイ・ユー・ケイが運営するブログ「つぶやきの部屋」を転載したものになります。

(マイナビニュース広告企画:提供 アイ・ユー・ケイ)

[PR]提供: