――大変な道のりでしたね。

「そこでまあ、なんとかなったというのはすごくありがたいことなんですけど、さらにそれでありがたかったのは、白泉社というのは不思議な会社で、もうプロになってる人とかだんだん載り始めた人でも、構わず連載してる作家さんのところにアシスタントに回すんですよ。なんか知らないけど、そういうシステムになってたんですな。それで、"じゃあ唐沢君、手が空いてるんだったら、ちょっとアシスタント行ってくれないか。バイト代も出るから"みたいな。それは願ったり叶ったりだな、といういうことで紹介された先が、とり・みき先生のところだったんですね」

――弘兼憲史先生のところでアシスタントをなさっていたときは、なじめない部分もおありだったというお話でしたが……。

「とり・みき先生のところはすごく楽しい職場で、すごく自分の感性に合ってた。マンガ家ってこういう感じだよなって(笑)。逆に、弘兼先生のところに勤めてたころっていうのは、ホントに大人な職場という感じで、へんな言い方すると、なんか会社みたいだったんですね」

――弘兼憲史先生は、大手電機メーカー勤務を経てマンガ家になられた方ですよね。やはり、ビジネスライクな仕事場だったんですか?

「ビジネスライクで。働く時間がこっからここまで、って決められてて、残業手当がついたり、すごくちゃんとしてたんですよ」

――そうだったんですか。サービス残業させたり、名ばかり管理職に仕立て上げたりするような会社より、よっぽどしっかりしてますね。

「ところが、とり先生のところに行ったら、あんまりちゃんとしてなくて(笑)。でもその、ちゃんとしてなくていい加減な部分がいかにもマンガ家ってこういう感じだよなあ、みたいな。すごくよかったですね。ゆるくてキツイ感じがすごく合ってて。バイト代は毎日毎日、"じゃあこのぐらい働いてくれたから、今日これぐらいね"って、トッパライでもらって」

――トッパライなんですか。それはありがたいですね。

「ありがたかったですよ、ホントに。それ以上に"持ち込みしてるマンガ、ちょっと見せてよ"って言われて見せたら、とり先生はギャグマンガとして、オレの作品をすごく評価してくれたんですね。それが、もう泣けるほどありがたかったなあと(笑)。そのころ、ホントに持ち込み作品として、というんならともかく、ギャグマンガとして評価してくれたっていうのは、身内も含めてとり先生が初めてだったんですよ(笑)」

――そこで初めて、評価してくれる方に巡り会えたわけですね。

「やっと、ですよ。オレのギャグ分かってくれる人、ここにいたよ、みたいな。あれはね、なんか救われたというか。で、それ以上にとり先生が描いているマンガというのが、こんなギャグマンガ描きたいな、というようなマンガをとり先生がすでに描いてたわけですね。これでいいんじゃん、みたいな(笑)。これでお金になってるマンガ家さん、ここにいるじゃん、ということでね」

――まさに、自分でおやりになりたかった路線で成功している、お手本になる方が目の前にいると。

「目の前に現実にいると。『少年サンデー』とかで、さんざんボロクソに言われて(笑)、"こんなギャグじゃ商売になりませんよ"みたいなこと言われたマンガを描いて、ちゃんとお金に換えてる人がここにいるじゃないか、ということでね。ああ、ありがたかったですね。心の底から支えになりましたね(笑)」

――とり先生とはその後、徳間書店の『月刊COMICリュウ』誌上で、『とりから往復書簡』という作品を一緒に連載なさり、その単行本がいよいよ8月19日に発売されますね。