――高校卒業後に、上京されたんですよね。

「多摩美術大学の付属の専門学校のほうに進んだんですけど、そのために東京にやって来たんですね。東京の暮らしというのが、またこれが田舎の高校生には刺激的で(笑)。そのころまだ、ビデオとかそういうのがない時代ですから、映画の二番館、三番館巡りですよ。札幌にはあまりありませんでしたから、名画座の類は。あとは神保町の古書店めぐり。すごくエキサイティングで、あれよあれよという間に、1年、2年経ってしまって(笑)。まあ、そういうのを経て、そろそろちゃんとマンガ家になりたいな、というのはあったんですね。それで、やっと描き始めたわけですよ」

――そのとき、お描きになったものは、友達に見せたりなさったんですか?

「そこでやっと友達に見せ始めた、という感じですね。とにかく、ずっと子どものころから閉じた世界でやってきた人間なんで、マンガを人に見せるのが恥ずかしかったんですよ。さすがにアニメサークルでちょっとずつマンガ描き始めたころは、だんだん人の目にふれることを気にし始めていたとはいっても、自分からマンガの原稿を持って"これ読んでくれ"みたいなことは、とてもできない状態で。ですから"マンガ家になりたいな"、と漠然とは思っていたけど、まだ編集部に持ち込みをしたり投稿したりとか、"これどうしたらいいんだろうか"っていう。夢はあるんですけど、立ち往生しちゃってるっていう、そういう感じでしたね」

――そうこうしているうちに専門学校を卒業して、マンガとは別な方向へ行こうと。

「行きかけたんですね。専門学校卒業と同時に、やっぱり就職を考えますわね。で、学校でいろいろ作ったデザインワークであるとか、いろんな持ち込み用の図案の類を持って、銀座の某デザイン会社に持って行ったわけですよ。それは先生の口利きがあった会社ですけど。そしたらそこで、ケチョンケチョンにやられてしまったわけですよ。これは何であるかと。お話にも何にもなりゃしねえよ、みたいな。そういうこと言われちゃったんですね」

――ここをこう直して、とかじゃなくて全面否定だったんですね。

「こんなの使いもんになるわけねえじゃないか、みたいな。もう全否定されてしまってですね、かなり傷ついたんです。それなりに半年から1年かけて、一生懸命がんばって描いたものですから。で、その帰り道でほとほと考えまして、就職活動で恥ずかしい思い、ツラい思いをするんだったら、もっと好きな自分で描いたマンガを持ち込みした方が、まだツラくないんじゃないかと。もともとなんですよ。オレがなりたいのはデザイナーでもイラストレーターでもない。オレはもともとマンガの者じゃないか、みたいなね(笑)。そういうのがあったんですね。ですからプロになろうと決心したのは、デザイン会社に持ち込みした帰りの電車の中なんです(笑)。その電車の中で、じゃあマンガ家になってやろうじゃないかという、はっきりとした目標ができた。そういう感じでしたね」