注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、放送作家の樅野(もみの)太紀氏だ。

民放テレビ各局が、広告主のニーズが高い層に向けた番組作りを進めるためにターゲットを明確化したことで、昨年から一気にお笑い番組が増加。それに比例して、このジャンルに強い樅野氏への発注が急増しているという。そんな状況にバブルの雰囲気も感じながら、「テレビが終わったら、僕も終わりでいいや」と“心中”する覚悟を語る――。


■テレ朝・藤井智久班でスタート「本当に感謝感謝です」

放送作家の樅野太紀氏

樅野太紀
1974年生まれ、岡山県出身。95年からお笑いコンビ・チャイルドマシーンとして活躍するも04年に解散し、放送作家に転向。現在は『ミュージックステーション』『しくじり先生 俺みたいになるな!!』『あいつ今何してる?』『関ジャム 完全燃SHOW』『かまいガチ』『まだアプデしてないの?』『にゅーくりぃむ』『ビビらせ邸』(テレビ朝日)、『有田Pおもてなす』『わらたまドッカ~ン』(NHK)、『有吉の壁』(日本テレビ)、『プレバト!!』(MBS)、『アウト×デラックス』『千鳥のクセがスゴいネタGP』『新しいカギ』(フジテレビ)などを担当。『しくじり先生』で第41回放送文化基金賞・構成作家賞、『両親ラブストーリー~オヤコイ』で第45回放送文化基金賞・企画賞を受賞。

――当連載に前回登場したテレビ朝日の藤井智久さんからご指名いただきました。

藤井さんから「君に取材振っといたから受けといて」ってLINEが来たんですよ。僕は藤井さんから言われたことにNOはないので、何かも聞かずすぐ「かしこまりました!」って返したんですね。その後にオファーを頂いて、この連載のことは知っていたので、「藤井さんから紹介されたのか!」と思って。これは結構でかい事件で、僕の放送作家人生の中に、1個「。」が付いたと思いました。藤井さんがいなければ、僕はここにいないので、本当に恩返しをしなきゃいけないんです。

――藤井さんは、樅野さんに「『作家になれば?』と言ったうちの1人が僕だと思います」とおっしゃっていました。

そうなんです。僕は吉本でチャイルドマシーンというコンビをやってて、それが2004年の秋くらいに解散が決まったんですね。ただ、12月いっぱいまでスケジュールが入ってるし、DVDも出るから、そこまではやってくれと言われて、3か月くらいは解散が決まった状態でそれを公表せずにやってたんです。

でも、解散することをちゃんと事前に報告しなきゃいけない人が藤井さんでした。僕は23歳で大阪から東京に出てきたんですけど、藤井さんは結構劇場に見に来てくださるタイプのテレビマンで、テレビに全然出てないときにオーディションに呼んでいただいたんです。その番組が『虎ノ門』で、誰も僕らなんて知らない頃に出してくれたんですよ。「一週間テレビガイド」ってコーナーを担当させてもらって、毎週生放送に出してもらって、ご飯も連れて行ってもらったりしていたので、「これは藤井さんに伝えないと」と思って、「12月いっぱいで解散することになりました」って言ったら、「何するの?」と聞かれたんです。そこで「作家に挑戦しようと思ってます」と言ったら、「何かあったら連絡するわ」と言ってくれて。そしたら本当にすぐ電話かかってきて、年内の仕事を振ってくれたんですよ(笑)

――早すぎる(笑)

「藤井さんすいません、12月までは芸人としてやるんで!」って言ったら、「あぁそうだ、ごめんごめん」って(笑)。それで年が明けて本当にすぐ電話かかってきて、「ライバルの番組だけどやる?」と言われてやらせてもらったのが、『限界アンタッチャブル』という特番でした。ちょうどその直前にアンタッチャブルさんがM-1優勝したときで「全然ライバルじゃないです! 何でもやります!」と言って、初めて参加したテレビの会議でしたね。ディレクターには小田隆一郎さん、作家には伊藤正宏さん、渡辺真也さんがいて、放送作家が何をするのかも分からない状態で、「キャスティング案、来週まで100個な」って言われて、今だったら冗談だって分かるんですけど、頑張って60何個考えて出したら、「めんどくさいなあ」って怒られたりして(笑)。そこから『Mステ』や『くりぃむナントカ』にも入れていただいたんですけど、今思うと最初に入ったのが藤井さんの会議で本当に良かったなと。

――それはなぜですか?

めちゃくちゃ厳しいんですよ(笑)。1個発言するのにものすごく緊張感があるんです。変なこと言うと「なんだそれ?」ってなるし、「何が面白いのか、皆さんの前で説明してみろよ!」って言われて、その時30歳ですが、みんなの前で何回も泣きそうになりましたから(笑)。他の人たちも一言しゃべるのがはばかれるくらいのシーンとした会議なんですけど、そこで“特攻隊長”となるのが、僕と北本かつらさんだったんです。「しゃべれよ」って言われて、しゃべると怒られるので、僕は「しゃべれよトラップ」って呼んでたんですけど(笑)

――最近ではなかなかない雰囲気の会議ですね(笑)

今の若い子に「よくこんな宿題(企画案など)出せるな…」と思うこともあるんですけど、逆にかわいそうだと思うんですよ。藤井さんの会議でこんなの出したらそれこそ血祭りにあげられるけど、今は怒ってくれる人がいないから成長できない。だから、僕はあの厳しさを最初に経験して、本当に良かったと思うんです。

――最初のレギュラーは『Mステ』だったんですよね。

「お前暇だろ? アーティストの方の打ち合わせに行って芸の肥やしにでもしなさい」と言われて、毎週5~6組の出演者がいるんですけど、全員の打ち合わせに連れて行ってもらいました。向こうの時間と場所に合わせて行くので、急に「明日の何時にここで」って言われるから、本当に暇だからできたんですよ。でも、恥ずかしいこともいっぱいありましたよ。KinKi Kidsの堂本剛くんに「樅野さんじゃないですか! ファンダンゴ(TV)見てますよ」って言われたり、50人に1人くらいには「芸人さんですよね?」と言われました。

――最初に音楽番組を担当してもらったのは、そういう面で藤井さんの配慮もあったんですかね?

あったと思います。でも、『Mステ』でも怒られましたねぇ。アーティストの方っておしゃべりが仕事じゃないですから、なかなかエピソードが聞き出せないで帰ってくるときもあるんですよ。そんな取材メモ見せたら「お前これで台本書けるのかよ!」って言われました(笑)

――藤井さん、『シルシルミシル』でも取材が甘かったら「もうちょっと聞いてきてよ」と行かせたと言っていました。

『シルシル』も厳しい会議でした…。でも自分が今、責任ある立場に上がって、自分とは全然レベルが違う話ですけど、藤井さんはこんなところで戦ってたんだなと思いますね。数字をとらないといけないし、とは言え面白くなきゃいけないし、そこのせめぎ合いをすごい責任感でやってたんだなって。『シルシル』なんて、ゴールデン、しかも19時台でちゃんと笑いを入れながら数字をとるって並大抵のことじゃないですよ。

それに、藤井さんは怖いですけど、愛があるんです。自分がリードした企画で結果が出なかったときは、ちゃんと次の会議の頭で「すまん、俺のミスリードだ。申し訳ない」って謝罪するんですよ。だから厳しくてもみんなついていくんですよね。

――男気があるんですね。

そうなんです。でも改めて、藤井さんがあれだけ厳しくしてくれなかったら、ここまで僕は作家としても社会人としても成長することができなかったので、本当に感謝感謝です。これだけは、100回くらい言わせてください(笑)

――同じく芸人さんから作家さんに転身された石原健次さんにお話を伺ったとき、「リサーチ死ぬほどやって先輩作家の代わりに宿題めちゃくちゃやっていた人は『なんだよ、芸人と仲いいからって』っていう気持ちになったと思います」と言っていたのですが、樅野さんもそういう感覚はありましたか?

正直言うと、ありましたね。テレ朝は藤井さん案件だから周りはそんな目で見てこないですけど、吉本時代のマネージャーが僕を気にかけてくれて、別の局の番組に入れてくれたんですね。その会議に早く来すぎちゃって、ディレクターと2人きりになったら、その人が弁当食いながら「芸人辞めて作家になったようなやつに俺、台本書いてほしくないけどなあ~」って言ったんです。

――おぉ……

それで「お前出身どこなの?」と聞かれて「岡山です」って答えたら、「岡山のやつに笑いなんか分かるわけねぇだろ」って言われて、「なんじゃこいつ?」って。

でも、そこで怒らなかったんです。作家になろうと思ったときに、2丁拳銃の(川谷)修士さんに「お前は気が強くて生意気で、人に頭下げられないから無理だ」と言われたんですよ。それを聞いてたしかにそうだと思って、30歳から新しい職業に就いて何者でもないんだから、“何があっても2年だけは怒らないでおこう”って1個だけルールを決めたんです。

藤井さんに対してだって、すごい怒られるから、悔しくて1人で酒飲んで帰ることもあって。面白いだけが取り柄の人生だったのに、「どこが面白いのか説明しろよ!」って毎日言われて、ルミネの最大集客数記録まで持ってる僕の鼻がなくなるまで折られましたけど(笑)、何があっても歯を食いしばって耐えられましたから。だから、あの修士さんの一言がなかったら、「俺、面白いから」って生意気な顔して嫌なやつで終わってたと思うんで、本当に感謝してます。

■犬が振り返るほど絶叫した『有吉の壁』G帯レギュラー化

――藤井さんの番組から、どのようにお仕事が広がっていったのですか?

藤井さんのチームにいた人たちがどんどん成長して、藤井さんの番組にADでいた北野(貴章)とか近藤(正紀)の企画が通るようになっていくんです。最初は、若いディレクター同士が初めて作った作品を戦わせるという『ハードル・プードル』という番組を小田隆一郎さんと作って、そこで北野が『未来ディレクター吉村』、近藤が『モテ★スベ』っていう企画を出して、その両方に僕も入ってやってました。今、北野とは『しくじり先生』を、近藤とは『かまいガチ』をやってますけど、彼らとはそこからですね。

他局では、吉本からの紹介で日テレのコント番組に呼ばれて、そこから『有吉の壁』をやってる橋本(和明)さんといろいろやらせてもらってます。『はんにゃのこの手があったか!』『ショコラ』『あらすじで楽しむ世界名作劇場』『ニノさん』、そして『不可思議探偵団』がゴールデンでレギュラーになるんですけど、これが終わったらスポーンと会わなくなるんです。その後、橋本さんは『不可思議探偵団』の枠に『有吉ゼミ』でリベンジして当てるんですけど、そのときは声がかからなかったんです。それから、有吉さんとお笑い番組を作るという流れになって、そーたにさんと僕が入って作ったのが『有吉の壁』ですね。

――『有吉の壁』が19時台でレギュラー化するというのを聞いたときは驚きましたよね。

忘れもしないです。目黒川沿いを犬の散歩してるときに、橋本さんから電話かかってきて、『有吉の壁』がレギュラーになると言われて「えーっ!」ってなって、しかも水曜19時だと言われて「えーーーーっ!!!」ってなって、犬が振り返りましたから(笑)