注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、テレビ美術制作会社に勤務しながら、コラムニストや小説家としても活躍する燃え殻氏だ。

日報代わりとして始めたというTwitterが話題になり、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説デビューを果たし、それがベストセラーになってさまざまなメディアに出演…という異色の存在で知られるが、「テレビ」についてはどんな考えを持っているのか――。


■死にそうになりながら原付で配達

テレビ美術制作会社勤務でコラムニスト、小説家の燃え殻氏

燃え殻
1973年生まれ、神奈川県出身。テレビ美術制作会社で企画・人事担当として勤務。会社員でありながら、コラムニスト、小説家としても活躍。17年6月に自伝的小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』(新潮社)が発売された。現在『週刊SPA!』(扶桑社)で『すべて忘れてしまうから』を、『yom yom』(新潮社)で新作小説『これはただの夏』を連載中。「燃え殻」の由来は、KIRINJIの堀込泰行が歌う楽曲から。

――当連載に前回登場したテレビ東京『ハイパーハードボイルドグルメリポート』の上出遼平さんが燃え殻さんについて、気になるという意味では今一番気になります。燃え殻さんがしゃべることは際立つと思うし、美術制作をずっとしてきた人から見るテレビというのもすごく興味深い」とお話ししていました。

えー、何もないのに(笑)

――『ハイパーハードボイルドグルメリポート』はご覧になったことはありますか?

スピンオフまで全部観ました。重い。重いパンチ力のある作品だと思いました。だけどきっとまた観返します、自分。

――テレビの美術制作会社に勤務しながら小説を書いているという燃え殻さんですが、まずは美術制作の仕事をすることになった経緯から教えてください。

最初は、五反田のIMAGICA(編集所)にアルバイトで入ったんです。雑用係だったんですが、「この人についてください」と言われたのが今のウチの社長でした。そしたら、初日に「この会社辞めようと思うんだよね」って言うんですよ(笑)。「おまえ、ついて来るだろ?」って言うんで、「何やるんですか?」って聞いたら「テロップ屋だ」と言うんです。当時、テレビに出るテロップは写植機で作っていて1枚2,000円くらいかかっていたんですが、マッキントッシュで作ったら500円まで値段が落とせると、社長が力説して。僕は世の中に何もツテがなかったので、一緒に会社を辞めました。そのあと六本木の雑居ビルの1室で、テロップ制作の仕事を始めたんです。

――テレビに興味があってIMAGICAをノックしたんですか?

本当はそう言いたいんですけど…。その前に、カップ麺の粉末や、スーパーの店頭に並ぶ激安スイーツを作る工場で働いていて、とにかく外国人の人しかいなくて、寂しかったんです。人と話すのも苦手だったんで最初は良かったんですけど、このままでいいのかなぁとは思ってました。その次は伊勢佐木町の映画館で映写技師、それから転々として、求人情報誌でたまたま見つけたIMAGICAを受けただけなんです。

――『ボクたちはみんな大人になれなかった』だと、今の美術制作会社で最初は配達の仕事をされていましたよね。

そうです。僕の上に社員が3人いたんですけど、最初は赤字で大変そうでした。社長が日々「本当にこのままでは危ない」って言っていたのを覚えています。その雑居ビルの部屋も、かなりヤバかった。僕たちが入る前は、裏ビデオ工場だったみたいで、壁にビデオデッキの跡が30個くらいあって。電線いじってるのか何なのか、ブレーカーが何しても落ちないんですよ。仕事もVシネマのパッケージデザインをやったら、プロデューサーが、「今回は、今川焼きがギャラってことで勘弁してくれな!」なんて言って終わり。でもその人が、もうかなりの迫力の方で、結局みんなで今川焼き食べましたね。意外とうまいな、とか言って(笑)

配達をするにも、僕はペーパードライバーだったんで死にそうになりながら原付に乗っていました。何度行っても配達先の編集所や制作会社の場所が覚えられなくて、赤信号になるとバイク便の人が車より前で停まるので、僕も原付で一生懸命前に出て「すいません、テレ朝日ってどこ曲がればいいんですかね?」とか聞いてました。そうするとバイク便の人はみんなメッチャいい人だから「一緒に行ってやるよ」とか言われて、そういうことを3~4年やってましたね。

――小説の中では交通事故の描写もありました。

盛大に事故ってました(笑)。眼底骨折とか、ズッコケてオシャレじゃないダメージジーンズになってしまうとか。その頃の編集所って1時間10万円とか時間制で決まってたんですよ。それで、僕の配達が遅れたらこっちがその10万円を負担するという契約でやっていて、遅れたら会社が倒産しちゃうっていうプレッシャーの中で、やってました。事故ろうがケガしようが、とにかく届けなければいけないという使命感でやってました。

■テレビってこの後ヤバいんじゃないか

『ボクたちはみんな大人になれなかった』(新潮社)
過去と現在をSNSがつなぐ、切なさ新時代の大人泣きラブ・ストーリー。

――そこから、小説では盛り返していきますが…

小説はやっぱり作者の希望が入りますので(笑)。でもあの小説のとおり、テレビ局って2004年くらいまでバブルが崩壊してなかったのは本当です。ゴールデンタイムの番組がすごい打ち上げをやってたり。僕たちが飲んでいたら、2000年くらいに六本木のキャバクラで、とある有名なプロデューサーさんが、お客さんで来たんです。で、ウチの社長が、その人にとっさにボトルを入れたんです。もちろん「頼んでない」とクレームが入る。そこで社長たちとそのプロデューサーさんに、「僕たちはテレビの美術制作全般やってるんです」って事情を説明したら、次の日からFAXが壊れたんじゃないかってぐらい仕事が来ました。

それでも当時は仕事にかなり波がありました。来る来ないの波が。ただ仕事を待っていても仕方ないと思ってたんで、テレビ局の人が飲み屋にいたら、そのテーブルまで行って、あいさつするとかやってました。都内の編集所を回って、誰が作業してるか分かんない部屋に勝手に入って「無料で一度テロップ使ってみてください」って一部屋、一部屋、声をかけて回ったり。

――でも、その新しいテロップの使い勝手が良かったから、売れていったんですよね。

そうですね。そういう感じで会社が回るようになって、テロップ以外にもフリップや小道具などを作る美術制作会社になり、十数年経って社員が80人くらいになったんです。でも僕は、テレビってこの後ヤバいんじゃないかとずっと思っていたので、社長に「テレビ業界以外の仕事も取りに行かせてください!」って進言したんです。今から10年前ですかね、SNSとかが少し始まった頃でしたけど、美術制作のスキルはあるので、テレビだけに偏る必要はないんじゃないかと思って、企業パンフレットの制作、イベント企画とかにも営業していくようになったんです。今では、「クライアントはテレビなのか一般企業なのか」なんて質問はなくなりましたが、最初の頃はなんでテレビ以外の仕事をしなきゃいけないんだ?という風潮はありました。あれは毎日、針のむしろでした。