数年前までヒューストン空港のカスタマーサービスは、預けた荷物を受け取るまでの時間が長いという利用客からの苦情に悩まされていた。当時の平均待ち時間は8分。そこで同空港は到着ゲートから荷物受取所まで遠回りするように設計し直した。利用客が歩く距離は以前の6倍になったが、荷物受け取りに対する苦情はほぼゼロに減少した。

到着ゲートから荷物受取所まで、歩く距離は短い方が歓迎される。でも、荷物が出てくるタイミングは変わらないのだ。せっかく早く着いても、なかなか荷物が出てこないと、時間を無駄にしているようで、逆にちょっとした待ち時間が旅行者にとって苦痛になる。それならば、最終的にタイミングよく荷物を受け取ってもらえるように設計した方が、たとえ遠回りになっても利用客に快適な利用体験を提供できる。

楽天のkobo Touch発売を巡る騒動から、同社が示した「年内に日本語書籍20万タイトル」や「年内100万台」などの目標に対する疑念が強まっているようだが、そうした報道を米国で読んでいて上記のヒューストン空港の話を思い出した。デジタルへのシフトという目標を考えたら、楽天が示した数字は荒唐無稽なものではない。だが、タイミングよく、効果的に示さないと消費者の心に響かない。勇み足から「実現しないのではないか……」という疑念を抱かれたら、むしろ逆効果である。

米Amazon.comの米国におけるアプローチは逆だ。同社はKindleの販売台数を非公開にしている。話題になっても実際の販売台数が不明だから、「消費者からの信頼を得にくい」と批判されることも多い。しかし、こうして振り返ってみると、Amazonは消費者を遠ざけているようで、実はタイミングよくデジタル書籍に導いていた。

Amazonは初代Kindleの頃から書籍のデジタルへのシフトをぶち上げていたのではなく、むしろ最初はKindleをAmazonの事業全体における「ホビー」のように扱っていた。3Gデータサービスを無料で使用でき、Amazonのサービスと連携するKindleはデジタルガジェットとしてユニークな存在で、また改造が不可能ではなかったこともあって熱心なアーリーアダプターを集めた。ただ、そうした初期ユーザーの間ではデジタル書籍の未来というような議論は少なかった。

それから毎年のように新製品を投入し、インディーズや自主出版向けにプラットフォームの幅を広げるなど、AmazonはKindleのコンテンツ/ ハードウエア/ サービスの拡充を着実に進めていたが、引き続き一般消費者に対する仕掛けは控えめだった。

そして2010年7月、Kindleの販売台数を公表してこなかったAmazonが満を持して、「Kindle用電子書籍の販売数がAmazon.comにおいてハードカバーを上回った」と発表した。続いて、第3世代のKindleを139ドルからという求めやすい価格で投入(初代Kindleは399ドル)。安くなったKindle端末はAmazonのサイトで大々的にプッシュされ、家電量販店やディスカウントストアでの取り扱いもスタートした。Amazon.comの書籍ページにはハードカバー/ペーパーバックとKindle版の価格比較が設けられ、ワンクリックでKindle版のページに移動できるようになった。デジタル書籍で本を読むことを、Amazonが一般消費者に強くアピールし始めた瞬間である。

当時Amazon.comでKindle書籍をブラウズすると、すでにベストセラーや人気作家の作品のKindle版が揃っていた。それどころかKindle版でしか読めない作品もたくさん登場していた。第3世代で初めてKindleに触れた多くのKindleユーザーは、すぐにデジタル書籍の未来を実感できたはずだ。それがKindleの爆発的な成長の起爆剤になった。

2010年のインパクトふたたび

今週、米国時間の6日にAmazonはカリフォルニア州サンタモニカでプレスイベントを開催する。それに先だって、同社はいくつかのデータを公表した。今回はKindleではなく、Primeサービスに関するデータである。Kindleの販売台数と同じように、同社はPrimeの会員数も非公開にしている。

米国でPrimeは年額79ドルで、契約すると対象商品については2daysの配送サービスを無料で受けられ、映画・TVのストリーミングやKindle書籍のレンタルサービスを無料で利用できる。AmazonはPrimeサービスを将来の幹として育てようとしており、例えばKindle書籍のレンタルは1年とかからずに対象作品が5,000タイトルから180,000タイトルに増加した。自主出版作品が目立つものの、ハリー・ポッター・シリーズから専門書まで魅力的な作品が揃っている。他にも同社によると、「Prime対象商品が1500万点を突破」し、「Primeの無料2days配達の利用数がSuper Saver配達 (対象商品の購入金額が25ドル以上の場合、送料が無料)利用数を超えた」という。つまりAmazonは、ヘビーユーザーの多くが年79ドルを支払ってPrimeを利用しているとアピールしているのだ。

昨年のKindle FireほどKindle端末に派手な変化はないだろうが、Amazonが市場を変えるという点では2010年以来の変化になる可能性がある

Kindleを一般消費者に広めた2010年と同じパターンなら、この情報公開を皮切りに、これまでヘビーユーザーをターゲットにしていたPrimeを一般消費者に拡大しようとするだろう。ひとたびAmazonが一般消費者にアピールし始めたら、消費者を待たせたりはしない。すでに大きな変化が進行していることを意味する。6日にKindle Fireの後継機が登場するという観測が広まっているが、注目すべきは今後のPrimeサービスと一般消費者の距離である。Amazonの目標はタブレット市場のシェア獲得ではない。Primeやサブスクリプション形式で利用してこそAmazonの価値が増すと消費者に納得させることであり、そのためにあの手この手を尽くしてくるはずだ。