そのときどきの状況に応じて、将来の夢というのは刻々と移り変わっていくのが普通だ。美容師とサロンモデルのマッチングサイト「Coupe(クープ)」を開発・運営するCoupeの代表取締役を務める竹村恵美氏のように、アナウンサー志望からエンジニア・経営者へと転向した例は、すこし珍しいかもしれないけれど。

Coupe 代表取締役 竹村恵美氏

そもそも、なぜ彼女はアナウンサーになりたいと思ったのか。アナウンサーになるのをやめようと決めたきっかけは何だったのか。そこにCoupe誕生に到るまでの大きな秘密があると思う。「ちょっと長くなってもいいですか?」と尋ねてきた竹村氏にもちろんと伝えると、彼女の人生にとって「停滞期」ともいえる中高生時代の話から始めてくれた。

日本に帰りたい……スイス高校時代

竹村氏 : 中学のころ、体調が悪くて学校を休みがちでした。そんな中、仲良しの友人たちが、私が登校したときに一人ぼっちにならないよう同じ委員会に入ってくれるなど、さまざまなサポートをしてくれたんです。

中学3年生のときに家族の転勤でドイツへ引越し、高校はインターナショナルスクールを受験したものの、勉強不足で落ちてしまいました。通える高校がない……と卒業間際になんとか滑り込んだのが、スイスにある日本人学生を受け入れる学校でした。

それから3年間、親元を離れて寮生活を送ることになりました。他人との共同生活に慣れなかったことや勉強にも追いつけなかったことなどから、日本に帰りたいと切望していましたね。

落ち込んでいる私を救ってくれたのは、やはり中学時代に支えてくれた友人でした。Skype越しに「がんばって卒業しよう」「日本の大学に通ったら楽しくなるよ」と応援してくれたんです。

また、当時は日本のニュースが流れる日本テレビのWebサイトばかり開いて、心を落ち着かせていました。そうするうちに、報道の現場にいるアナウンサーに対してカッコいいな、素敵な職業だなと感じるようになっていました。

卒業後、立教大学に入学し、すぐに放送研究会とキー局のアナウンススクールに入りました。 また、アナウンサーの登竜門といわれるキー局のイベントコンパニオンのバイトをしたりと、夢への道を着々と歩んでいました。でも、あるとき「私にこの仕事は向いてないかも」と感じたんです。

「私にアナウンサーは無理かもしれない」

―― どういう出来事があってそう思ったんですか?

キー局の二次~三次審査のときでした。スタジオで一人ひとりがカメラに向かってニュースを読むのを、他の候補者が控室で「あの子、ないよね」「◯◯のスクールに通っている子らしいよ」などと評価したり、噂をしたりして、足の引っ張り合いをするのを目にして、こういう環境は好まないと感じました。ほかにもいくつかの要素があって、このままアナウンサー志望を続けていいのかと思い悩むようになりました。

悶々としている時期に、生きづらさを感じていた高校時代の記憶がふと蘇りました。当時、美味しいとはいえない寮併設のカフェテリアで1日3回食事をとっていたんですが、それが苦痛で「食事をもっと美味しくする委員会」みたいなものを結成し、改善に向けて活動していたんです。

不便なことや不都合なことを改善したり、便利にしたりするのが、自分の性分に合っているのかもしれないと思いました。一方で、私にとってアナウンサーという職業は、ニュース原稿を完璧に読んだり、場を完璧に仕切ったりするスキルが求められる仕事です。「果たしてそれは私に合っている?」と改めて考えるようになりました。

そこで、テレビ局だけでなくもっと広く業界を見てみようと、「フランス語通訳のバイトをしない?」と声をかけてくれた、従業員数2名のITベンチャー企業で働き始めたんです。そこで初めてプログラミングする様子を見て衝撃を受けました。

素直にお話しすると、プログラミングに対して「理系でオタクっぽい印象」を持っていました。けれど、どちらかと言うと派手な外見をしていたITベンチャーの社長がプログラミングをしている姿を見て、その印象はすぐ払拭されました。私もやりたいという気持ちを伝えたのは、それから間もなくのことです。

10日間のプログラミング講座で「エンジニアになりたい!」

―― どんな言葉が返ってきましたか?

「できるよ!」とノリよく元気に言われました(笑)。そこで大学3年の夏、10日間朝から晩までゼロからみっちりプログラミングを教わり、受講後には自力で一通りサービスを作れるようになる初心者・文系向けの講座に通ったんです。

これが大正解で、すっかりプログラミングに魅せられてしまいました。それからは志望先をテレビ局からIT企業に切り替えて就職活動を進めました。同時にエンジニアになりたくて、新たに別の講座に通おうとしたのですが、社長から「基礎はマスターしたんだから、習うより自分で何かサービスを作る方がより力がつくよ」とアドバイスをもらい、2013年秋に1カ月で作ったのがCoupeでした。

―― サービスの軸を「美容師とサロンモデルをつなぐ」にしたのはなぜですか?

根本には「問題解決できるものを作りたい」という思いがありました。そこで思い浮かんだのが、中高時代に私を支えてくれた親友の姿です。彼女は美容師になり、手取り13万円ほどで朝から終電がなくなる時間まで働き、週1回あるかないかの休日には、サロンモデル探しに奔走していました。

そんな過酷な状況を聞いて少しでも力になれればと思い、アナウンススクール時代の美人な友人たちをどんどん紹介していました。それを人力ではなく、Webの力でやれたらいいな、と考えたんですね。かわいい女の子を掲載して、美容師にハントしてもらう仕組みをつくろう、と。

当時の私のプログラミングスキルを考えても、なんとか作れるレベルのサービスでした。とはいえ、就活の際に「Webサービスを作った経験がある」と伝えそのサービスを見てもらえば、就活で結構な自己PRにもなると考えていたんです。

業界の大御所が私を本気にさせた

―― たしかに、人事の反応はすごく良さそうですね

ほとんどの人事担当者が前のめりになって話を聞いてくださり、行きたい会社から内定をいただくなど、トントン拍子に就活を終えることができました。内定後はすぐに会社近くに引っ越しして一人暮らしを始め、内定者バイトもして、その会社に入社する気満々でした。

並行してCoupeの開発も進めていましたね。最初に作ったものはサービスとしては不完全だったので、改良し続けていましたし、掲載する女の子も増やしていました。次第にサービスを使ってくれる人が増え、私のFacebook宛に美容師さんからお礼のメッセージをいただくまでになったんです。

自分のサービスが社会にたとえわずかでもプラスの影響をもたらしていること、自分が作らなかったら出会えていない人がいることを思うと嬉しかったです。

―― でも、会社員になったら、Coupeの開発はできなくなるのでは…

そうですね。「入社するならうちの仕事に専念してほしい」とは言われました。どうするか悩みに悩み、気持ちが固まったのは美容師業界の大御所といえるような方々の声を聞いたときでした。

彼らによると、若いころの美容師はかわいい女の子を街へ探しにいくのが当たり前で。「でも今は、アシスタントがCoupeのようなサービスで簡単にハントして、楽しようとしている」と言うのです。それを聞いてハッとしましたし、業界の内側にまでCoupeが入り込んでいて、注目されていることを実感しました。

そのときにようやくCoupeを趣味やスキルアップ目的で作るのではなく、より使ってもらえるサービスにしたい、就職してCoupeを手放すのは嫌だ、という気持ちがわいてきました。2014年10月ころのことです。そこで12月に内定辞退の意を会社に伝え、会社の登記も行いました。

全国展開で、美容業界と若いモデルさんたちに更なる価値提供を

―― 第一志望だったはずの会社を辞退し、いきなり起業することに不安はなかったですか?

もちろん不安はありましたが、人との出会いがそれを吹き飛ばしてくれました。翻訳バイトをしていた会社の社長のつながりで、Googleに勤める方とつながり、私が起業か就職かの選択に揺れているとき、彼が起業を勧めてくれたんです。

後にエンジェル投資をしてくれた彼は、「たとえ起業して失敗しても、普通に就職するより楽しい人生を送れると思うよ。借金のリスクもない事業だし。それに、今後もし就職する日が来ても、面接で『起業してたの? すごい!』といい反応が来るはずだよ」と背中を押してくれました。

まだ大学生でしたから両親にも、内定辞退と起業の旨を伝えると「引越しもしたんだし、その会社に就職しなさいよ」と最初は渋々でした(笑)。納得してもらいたかったので、Googleの方の言葉をそのまま伝えると腑に落ちた様子でしたね。

―― 今後の展望を教えてください

まずは全国展開を実現させたいと思っています。全国にCoupeのモデルがいれば、世の中の美容師さん全員が使うことができるだけでなく、美容師業界においてサロンモデルをハントする必要がなくなるかもしれません。加えて、若い子も気軽にモデルとして輝くことができる ―― そんな世界観を実現したいと思っています。