本連載で見てきたように、日本経済は長期の厳しい時代を経て、いま本格復活に向けて動き出しています。

平成時代の日本経済はバブル崩壊によって経済低迷に陥り、金融機関の経営破綻、リーマン・ショック、東日本大震災など未曽有の危機に何度も見舞われました。その結果、日本経済は深刻な打撃を受け、力がどんどん弱っていきました。しかし、その中にあっても多くの企業や関係者が危機を乗り越える努力を懸命に続けた結果、本連載で見てきたような新しい変化、本格復活に向けた可能性をつかみ始めているのです。これこそが、令和の時代に日本経済を本格復活させる原動力になるものです。

振り返れば、日本という国は明治以来、何度も危機に直面し、時には大きな犠牲を払いながらも、それを乗り越えてきました。いや、単に乗り越えただけではなく、それによってむしろ強くなってきたという歴史を持っています。別の表現を使うなら、ピンチをチャンスに変えてきた歴史と言えます。

植民地化の危機に直面した幕末、薩長藩などが自力で近代化に挑戦

それはまず、150年余り前の1800年代にさかのぼります。1853年のペリー来航は、日本が植民地化の危機に立たされていることを白日の下にさらしました。徳川幕府が鎖国を続けていた間に欧米列強は続々とアジアに進出し、英国はアヘン戦争によって香港を植民地として獲得し、上海なども半ば植民地化しました。日本近海には外国船が頻繁に出没するようになっていました。

当時の薩摩、長州、佐賀などの西南雄藩はそうした欧米列強の動きに危機感を強め、軍備で彼らに対抗するため反射炉建設に乗り出しました。反射炉とは、耐火煉瓦で作った炉の内部で原料の銑鉄を高温で溶かし、鋳型に流し込んで大砲を製造する設備で、当時のヨーロッパの最先端技術でした。ちょうどオランダ人が長崎に持ち込んだ「鉄製大砲製造法」の本を日本の蘭学者が翻訳し、その本を頼りに各藩のサムライたちは建設に着手しました。

  • 時の姿を残す伊豆・韮山反射炉(世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つとなっている)=筆者撮影

    当時の姿を残す伊豆・韮山反射炉。世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つとなっている(筆者撮影)

しかし、当時の日本ではもちろん誰も反射炉など作ったこともなければ見たこともない。詳細な設計図もないし、教えてくれる人もいない。そんな状況の中でサムライたちは試行錯誤を繰り返し、ついに反射炉を完成させ大砲製造に成功したのです。

その過程では挫折しかけたこともありました。佐賀藩では当初はうまくいかなかったため、反射炉建設の責任者を命じられていた藩士が切腹を申し出たという壮絶な話も残っています。しかし、藩主がそれを押しとどめ、最終的に反射炉完成と大砲製造にこぎつけたのでした。それらはすべて自力です。しかも、驚くべきことに、佐賀藩が反射炉を完成させ大砲製造に成功したのは、ペリー来航前なのです。薩摩藩もペリー来航前から着手していました(完成はペリー来航後でしたが、すべて自力という点では佐賀藩と同じです)。

ここでもう一つ重要なのは、単なる西洋技術の導入、モノマネではなかったことです。当時の日本には、反射炉の建設に不可欠な煉瓦の技術がまだありませんでした。これがネックとなって、何度も失敗を重ねることになったのですが、佐賀藩は有田焼、薩摩藩は薩摩焼など、地元の焼物職人を動員して、その技術を応用し、成功に導いたのでした。単に西洋の技術を輸入するだけでなく、日本在来の高い技術を活用して融合させるという工夫をしたわけです。

反射炉は、鳥取藩、水戸藩、さらには幕府も建設しました。幕府の反射炉は、ペリー来航直後に伊豆・韮山(現在の静岡県伊豆の国市)に建設したもので、ほぼ完全な形で現存しています。

また有力各藩や幕府は造船所を造り、自力で軍艦の建造に乗り出します。木造帆船の大型化から始め、続いて蒸気機関も自前で製造して船の動力として鉄製大砲も搭載、最終的には鉄製軍艦の建造へとレベルアップしていきました。

世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に見る"150年のDNA"

こうして幕末の反射炉は明治以降の鉄鋼業、同じく軍艦建造は造船業の基礎となり、それぞれ近代化の柱となりました。

幕末に日本にやってきたオランダ人の海軍将校が、薩摩藩が建造した日本初の蒸気船を見て「一度も実際に蒸気機関を見たこともなくして、ただ簡単な図面を頼りに、この種の機関を造った人の才能の非凡さに驚かざるを得ない」と書き残しています(カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』水田信利訳、平凡社東洋文庫)。

ここに、当時の日本人たちが植民地化の危機を乗り越えるために持てる力を結集して必死に努力し続けた様子がよく表れています。このパワーが、倒幕と明治維新の原動力となったのです。そして明治新政府は短期間に近代化を成し遂げ、日本は世界有数の経済大国に成長しました。まさにピンチをチャンスに変えたのです。これこそが、日本の近代化の原点であり、今日に受け継がれている"DNA"なのです。私はこれを"150年のDNA"と名づけています。

これら幕末から明治期の産業発展の跡を示す遺跡が全国に残っており、そのうちの23の産業遺産が「明治日本の産業革命遺産」として、2015年に世界遺産に登録されました。詳しくは拙著『明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦!技術立国ニッポンはここから始まった』(集英社)をご参照いただければと思いますが、同遺産を見て回ると、当時の人たちの努力と挑戦の跡を感じることができ、元気づけられます。

  • 「明治日本の産業革命遺産」の構成資産(8エリア・23遺産)

    「明治日本の産業革命遺産」の構成資産(8エリア・23遺産)

戦後10年でスピード復興、高度経済成長へ

その後、日本は世界の大国の仲間入りを果たしましたが、戦争ですべてを失いました。300万人もの日本国民が犠牲となり、原爆が落とされた広島、長崎をはじめ、東京や大阪など日本中のほとんどの都市は焼け野原となりました。経済も壊滅状態で、まさに存亡の危機でした。そのうえ終戦後も食糧難と物資不足、ハイパーインフレなど危機が続きました。

しかし、当時の人たちはその危機を必死で乗り越えました。終戦からわずか10年後の昭和30年(1955年)に、日本経済は戦前のピークの水準を回復するようになり、政府は翌31年(1956年)の経済白書で「もはや戦後ではない」と戦後復興を宣言しました。驚異的なスピードで戦後復興を果たしたのでした。

そして日本は、そのまま昭和30~40年代の高度経済成長に突き進んでいきます。昭和39年(1964年)の東京五輪、同45年(1970年)の大阪万博などを経て、日本は世界第2位の経済大国の座を確固たるものにしたのでした。

戦後の経済発展は、朝鮮戦争特需や米国の援助などに助けられた面がありますが、何よりも当時の日本人が敗戦という危機を全力で乗り越え、それによって戦後復興と高度経済成長を実現することができたのです。まさに幕末・明治以来の"150年のDNA"が力を発揮したわけです。

  • 戦後の実質GDP成長率(昭和31年~平成元年)

    戦後の実質GDP成長率(昭和31年~平成元年)