「君は声が高すぎる」

20代の頃、ある男性アーティストに言われた言葉である。共通の知人の誕生日会での出来事で、私と彼はその日が初対面だった。

初めましての挨拶後、酒に酔った彼はしばし私を見つめてから立て続けに言う。「いつまでも、その声の高さで、人生がまかり通ると思うな」と。

最初は彼が何を言いたいのか、さっぱり意図が分からなかった。声帯は生まれ持った性質で、意図的に変えようとしても限界がある。

私はあくまで地声で挨拶をしたのだが、なぜか彼の癪に障ったらしい。

「すみません。元々こういう声なんです」

淡々と伝えてみるが、謎の怒りは収まらない。

「その甲高い声だけじゃない。そんなに肩を出した服を着て、君は何がしたいの? 男ウケ重視?」

今度は、ららぽーと船橋で買った当時のお気に入りの水色のトップスもディスってくるではないか。なになに、この地獄は。

「はぁ……」

声も服装も彼の御眼鏡に適わなかったようだが、そんなことは知ったことではない。

「お言葉ですが……」

やむなく私は、いくら相手が酒に酔っていたとしても見過ごせない言葉についてはぽつりぽつりと反論に出た。すると彼も、「自分の若さや服装で媚を売るな」と応戦してくる。

幾つかそんなやり取りが続いた後で、男性を制するように彼の“仲間”が私のもとにやってきて申し訳なさそうに言う。

「ごめんね。コイツ、酒に酔うと女の子を説教して口説く癖があるんだ」と。

え? なになに。私、今「説教」されていたの? しかも説教+口説き? え、一体どんな迷惑行為ですか。

私は事実と異なる点を指摘されたため抗議しただけである。自分のパーソナリティを傷つけられた挙げ句、彼のお仲間に現状を「説教」と形容されてしまった。誠に不本意だった。不快度MAXになった私は、その場から立ち去る。

  • 『百女百様 〜街で見かけた女性たち』(内外出版社)

刈り上げ儀式を行う

翌日、未だ彼らの言葉に違和感を抱いた若い私は、美容室へ行き髪を刈り上げた。

刈り上げるのはその日が初めてではなく、当時からいつも「何か鵜呑みしなければいけない出来事」があるたび、私は後ろ髪をせっせと刈り上げた。その儀式をすることで、なんとなく心を落ち着いていたのだ。

今回の場合、彼には二度と会わないだろうが、せめて私は反抗したかった。

水色のトップスもこの声も、私の人生を彩る大切な要素だけれど、もしそれらがアナタにとって「媚びを売るためのコスプレ」に見えたらならば心外だと。

「あなたが枠組みをする世界観のなかで、私は生きていません」

それを表明するため、私は自分のアイデンティティーをまっさらにしたかった。それが正しい行為かどうかは別として。しかし髪は刈り上げても、どういうわけか水色のトップスは捨てられずにいた。それを捨ててしまうことは、私自身の誇りも捨てることになる気がしたから。

「たかがそれだけのことで」と思う人もいるだろう。しかし、私にとってはそれほど屈辱的な体験だった。

見事な「個の美しさ」

『百女百様 〜街で見かけた女性たち』(内外出版社)には、好きなように装い、自由に生きていく女性たちの姿がつづられている。著者のはらだ有彩さんが、パリや中国、大阪に東京、ハワイといった世界中のあちこちで見かけた女性たちの装いについて考察が述べられている。

例えば、ハワイで見かけた「ビーチで寝そべるビキニの女性」については、こんな描写が載っていた。

「ハワイのビーチに寝そべる彼女はとてつもなく派手な水着を『着て』いた。そして温泉にいるみたいに、思うさまダラダラしていた。彼女が眠っている間、水着は泳ぐためのものでも、見せるためのものでもなかった。パジャマのように優しく、全裸のように開放的なものだった。」(21ページより引用)

水着を着ることで発生する(場合がある)、「視線による身体への侵略」を無効化するように生き生きと過ごす女性の姿が私の脳内で穏やかに立ち上がる。浜辺のカフェでその女性は自分が過ごしたいように食事を頬張ったり、グラスを干したり、極限までダラダラとしながらガチ寝していたという。

そんな光景をはらださんは眩いものとして観察し、見事に「個の美しさ」として送り届け、心のなかで喝采していた。

さらにビキニというアイテム自体が持っている素晴らしさ、歴史的な背景、その服飾を生み出すことに携わった人物達の信念についても調べ上げて触れている。物凄い熱量だと思った。これをまず、調べるだけでも大変な労力だ。

  • 世界中の女性たちの装いについて考察が述べられている

本著は全編に渡り、「彼女達の好きな装いが、誰かによって傷つけられることがありませんように」という願いが込められている。

ミニスカートやハイヒールといった、ともすればステレオタイプの意見で駆逐されてしまう危険性のあるアイテムに対しても「益体のないジャッジ」に女性が直面しないよう膨大なエネルギーをかけて慎重に、丁寧に、真剣に祈られている。

あっぱれ、だよ。はらださん。

私は、本著のなかに登場する幾人もの女性と脳内で出会っていくなかで、あの頃の自分を思い出していた。そして今後、いかなることがあっても私は他者のファッションを否定しないことを誓った。

ファッションだけではない。身体的、精神的、そして人権。地球上の「個」が身にまとう空気感や波長も尊重したい。読み終えた今、そんな気分でいる。

自分のタイミングで生きる

あの日、私が刈り上げるきっかけになった男性と、その後、別の場所で再会した。その頃の私はベリーショートにしており、彼と初めて会った頃とは異なるファッション性でいた。

いつかの水色のトップスは後輩にあげて、自分のタイミングで、その服と別れた。とても大切なものだったけれど、「もう私には不要だな」と思ったからそうした。

しかし、その「選択的ボーイッシュな姿」を見た彼は私に言う。「今日の服は似合ってるよ。それが真の姿だろ? 俺、そういう服好きだよ」と。

何度でも言うが、私はあなたのために見た目の変化を遂げているわけではない。私があなたの好みな外見であろうと、なかろうと、私は私のタイミングで生きる。