富士通のソフトウェア開発拠点である静岡県沼津市の富士通沼津工場は、富士通のコンピュータ事業における歴史的拠点である。

富士通沼津工場

富士通沼津工場は、1976年8月に、メインフレームの生産拠点として設立。1982年には、基本ソフトウェアおよびミドルウェアの開発部門が移管し、ハード、ソフトを集約したコンピュータ生産の一大拠点へと拡大。コンピュータ事業でIBMを追随する戦略的拠点と位置づけられた。

当時、東海道新幹線と東名高速道路の沿線には、富士通の看板が次々と立てられ、東京から三島、沼津に至る区間では、まさに富士通のコンピュータ事業の繁栄を象徴したほか、沼津インターチェンジから富士通沼津工場に至る道路は、高速道路工事用に作られた脇道を拡張し、トラックを通りやすくするなどの取り組みも行われたほどだ。

その後、ハードウェアの生産は、石川県宇ノ気の富士通ITプロダクツに移管され、現在、沼津工場では、サーバ、ストレージの品質評価、システムソフトウェアの開発が行われている。理化学研究所に納入予定の世界最速を目指すスーパーコンピュータも沼津工場で検証が行われているほか、富士通の最新のソフトウェア開発環境である「沼津ソフトウェア開発クラウドセンター」も同工場内に置かれ、国内外の富士通グループの開発者4,500人がこれを利用している。

沼津工場の従業員数は約2,100人。富士通から1,200人、系列関係者で400人、協力会社で500人という体制。約7割がソフトウェアの技術者である。

富士通沼津工場の全体構成

最新の開発環境である沼津ソフトウェア開発クラウドセンター

富士通沼津工場のもうひとつの顔が、富士通グループの技術者のための研修/教育拠点としての役割を担っているという点だ。

富士通らしさの研修および継承の場でもある」と沼津工場の内田正章工場長は語る。

研修としては、ビジネスリーダーの育成として、ビジネス戦略提言ワークショップやグローバル・リーダーシップ・プログラムの実施のほか、階層別研修として部長、課長、新入社員などの各階層を対象にした合宿形式での研修、ITプロフェッショナルの育成として「沼津塾」と呼ばれるプロジェクトリーダーのための設計・構築に関する研修のほか、運用技術研修、保守技術研修などが行われる。

だが、内田工場長が、沼津工場を研修の場だけでなく「富士通らしさの継承の場」とする理由はもうひとつある。それは、富士通のコンピュータ事業の生みの親でもある故・池田敏雄専務取締役の功績を称えた「池田記念室」が、同工場内に設置されていることに起因する。

富士通沼津工場内にある池田記念室

池田記念室には、1959年に生産されたリレー式コンピュータのFACOM128Bが展示され、来場者は、リレー式ならではの大きな音をたてて動きだす様子をいまも見ることができる。さらに、富士通の歴代製品を展示したDNA館も、年々展示内容を充実させており、富士通が数々の製品に注ぎ込んできた同社のDNAを垣間見ることができる。

1959年に生産されたリレー式コンピュータのFACOM128B。これは日本大学理工学部で15年間稼働していたもの(実際に動作する様子はこちら)

池田敏雄氏は、型破りな人物として知られている。

新たなアイデアが浮かび、それに集中してしまうと、何日も自宅にこもり、出社することを忘れてしまうほどだったという。その一方で、研究に没頭すると今度は何日も会社に泊まり込んでしまうということもあったという。

その池田氏の型破りぶりを、社内で許すムードが出来上がったのは、富士通が初めて日本電信電話(現在のNTT)に納入した通信機がダイヤル動作の障害を起こした際に、そのダイヤルの動作を理論的に解析。問題の本質を明らかにしたことだった。天才という称号を示すエピソードともいえるものだった。

1948年には、富士通は池田氏が研究に集中できるように、機構研究室を設置。ここで、電子式ダイヤル速度測定機を完成。これがきっかけとなって池田氏は、コンピュータに目覚め、リレーを使用した独自のコンピュータの開発に取り組んだ。当時、池田氏は、「電話交換機用のリレーを回路素子として使用した自動計算機をつくる」と話していたというが、この言葉に、富士通を通信機メーカーからコンピュータメーカーへ変身させたDNAの根底がある。

その池田氏が開発したコンピュータの一台であるFACOM128Bが、池田記念室に、世界最古の稼動するコンピュータとして動態保存されている。FACOM128Bは、国産初のリレー式商用計算機であるFACOM128Aの機能強化版として1959年に製造されたものだ。富士通がリレー式のコンピュータを開発するまでは、真空管が常識だったが、動作が極めて不安定であったことから、同社が電話交換機で使用していたリレーを活用することを決定したのが始まりだ。同社では、これを「電子計算機」ではなく、「電気計算機」と位置づけている。

リレー式コンピュータは、電磁石を使ったスイッチであるリレーの接点に、電流が流れるか流れないかを電気回路のON/OFFに当てはめて計算を行う仕組みだ。金属の接点が物理的に接合するため、計算をする際には大きな音が発生。そのために、夜間11時以降の稼動が禁止されたという逸話もある。また、池田氏は、その独特の音を聞き分けて、いま乗算の計算をしているのか、除算の計算をしているのかがわかったという。

中央演算処理装置には、5,000個のリレーが使用され、メモリには、1万,000個のリレーが使われている。このリレーは接触不良による故障が起きやすいという課題があったが、池田氏は回路設計や自己検査機能の導入などによって高い信頼性を確保することに成功した。

現在は、同社OBが中心になって、このFACOM128Bのメンテナンスを行っているが、現在でも稼働するという信頼性の高さは、まさに池田氏の相次ぐ改良の成果であり、ここに、富士通が受け継ぐべくコンピュータ開発のDNAがあるといえる。

リレー式コンピュータに用いられたリレー

プログラムは紙に穴を開けて作った

計算結果を打ち出すプリンタ

乗除算開平装置と呼ばれる部分。いわばメモリー部である

当時の社名は富士通信機製造。これが現社名の富士通の由来

情報処理学会から情報処理遺産に認定されている。稼働する世界最古のコンピュータだ

池田氏が書いたFACOM128Bの設計書

池田氏が1965年に記した電子計算機の発展過程。これがその後のFACOM系列に流れる基本思想となっている

池田氏の数々の重要な書類が展示されている。几帳面さを伺わせるきめ細かな文字が特徴だ

囲碁の新たなルールを提案するなどの才能も池田氏を象徴するエピソード

こちらはDECから寄贈を受けた真空管式コンピュータ。富士通は真空管のコンピュータは作っていない

日本初の実用リレー式計算機「FACOM100」。1954年に生産された。FACOMの名称は「Fujitsu Automatic COMpute」の頭文字だ

FACOM128A。FACOM100の4倍の速度を実現した。これを改良し、128型の決定版となったのが展示されているFACOM128B

FACOM212。素子にパラメトロンを用いた小型機。1959年に稼働し、全世界で30台以上が納入された

FACOM201/202。ソフトウェア互換性の概念を取り入れた製品。1960年に稼働

FACOM231。1963年に稼働した小型電子計算機。神奈川大学などに92台を納入した

FACOM230-10。1日1万円で使用できる低価格が売りとなった事務小型計算機。1,800台以上を出荷。1965年の製品

FACOM230-60。1968年に稼働した汎用超大型電子計算機。京都大学などに納入された

FACOM230-15。1971年に稼働した汎用小型計算機。2,900台以上の導入実績がある。主記憶は32KB

富士通DNA館の入口。歴史的な製品が並んでいるという