営業経験のある人なら誰でも、顧客との効果的なコミュニケーションの方法に頭を悩ませたことがあるのではないか。特に忙しい顧客相手にアポイントなしで飛び込み、提案するようなシーンであればなおさらだ。顧客のニーズを掴み、こちらの提案内容へ導くのはそう簡単なことではない。顧客との距離を縮めるには、時間や経験、センスなど高度な専門性を必要とするだろう。

2013年2月、中外製薬はiPadを用いて医療従事者との効果的なコミュニケーションを可能にするツールを導入した。多忙を極める医療従事者に情報提供を行うには、当然高いコミュニケーション能力や技術が必要になる。その現場で、コミュニケーション促進に効果を上げているのがiPadを活用したツールだという。

同社のiPad導入は2012年1月にさかのぼる。1,700人のMR(医薬情報担当者)へiPadを配付し、資料の電子化などに取り組んだ。その様子は、2012年4月に本連載でも紹介した。今回は、さらに一歩進んだiPadの効果的活用を促進する同社の事例を紹介する。

多忙な医師に短時間で効果的に情報提供できるツールが欲しい

MRは、医師が医薬品を安全かつ適正に使用できるよう、自社製品の情報だけに留まらず、疾患にまつわる幅広い情報を届けることが主な仕事である。それらの情報提供により、医師に自社製品を処方してもらうには、まずはMR自身が医師から信頼される存在になることが重要であり、それには、多くのコミュニケーションの機会を得ることが必要だ。

しかし、多忙な医師とゆっくり話せる機会はそう多くない。近年、大きな病院ではMRの訪問を制限するところもあり、MRを取り巻く環境は厳しい。

たとえ数分というわずかな時間であっても、医師の印象に残り、耳を傾けてくれる方法はないか。そこで同社が考案したのが、Q&A形式での情報提供だった。

営業業務部 推進グループ 中野陽介氏

「iPadのアンケートアプリを活用したQ&A形式の資材をiPadにダウンロードしておき、医師が答えながら話を進める方法です。この方法なら、自然とコミュニケーションが生まれ、医師の意向を確認しながら情報提供する形が取れます」と語るのは、中外製薬 営業業務部 推進グループ 中野陽介氏だ。

従来、同社は医師の意見を集める手段として紙面によるインタビューを行ってきた。MRが医師を訪問する際に回答用紙を渡して記入してもらう方式だ。そのインタビューでiPadを活用し、紙面のインタビューよりも深い話し合いを行い、効果的な情報提供を可能にするツールとしてアンケートアプリを応用しようと考えたのだ。

その活用方法は、医師と話ができそうなチャンスに、そっとiPadを差し出す。「何だろう」と興味を持った医師の目の前に、質問とともに画像などが表示され、医師はiPadの画面にタッチしながら回答していく。質問は数問程度。医師が興味を持って質問に答えていくうちに、自然と意見や感想を引き出す仕組みだ。医師との会話が途切れない形で、「質問→回答→会話」の流れを取りつつ、自社品の特徴や最新情報を伝えることができるように工夫されている。

プライマリーユニット 千葉営業部 松戸新薬二室のMR 中丸宏明氏は、iPadを用いた面談の効果をこう語る。

プライマリーユニット 千葉営業部 松戸新薬二室 中丸宏明氏

「iPadを使うことで、これまで以上に医師とMRで双方向のコミュニケーションが可能となり、自然と話す機会も増え会話も弾みます。面談時間は確実に長くなっていると感じています。紙面でのインタビューの場合、ドクターに用紙とペンを渡して、医師が回答した内容を受け取るだけという一方向のコミュニケーションで終わってしまうこともありました」(中丸氏)

Q&A形式のコミュニケーションは、必ず何らかの答えがもらえ、そこから次の話題へとつなげていくことができる。iPadを使えば、画面上で画像や動画を効果的に使った説明が可能なため、医師の関心も高く、意向を引き出しやすいという。

「特に画像を使った説明に効果を感じます。文字だけの資料では素通りされてしまう内容も画像や動画だとインパクトがあるので、時間がない中でも興味を持ってご覧いただけます。たとえば、パッケージをリニューアルした製品の新旧を写真で比較してインタビューを行った際は、医師がiPadで画像を見比べながらの回答が可能となり、違いをよく把握していただいた上でいろいろな意見も伺えました。また、その後も製品の印象が残っていたようなので、効果的な説明が自然に行えたと実感しています」(中丸氏)

その他、多くの情報が盛り込まれた厚みのある冊子を渡す際、事前に資料のトピックスを組み込んだインタビューを行い、医師が興味を持った状態で資料を渡すなど、口頭だけでは印象を残すことが難しそうな場面でも、iPadが効果を発揮しているという。

情報提供にseapを活用

医療従事者に提供する資料作成には規制があり、MRが独自で資料を作成することはない。すべて本社で制作し、社内チェックを経てMRの情報提供活動に使用する。 同社は、株式会社ジェナが開発した「seap」を活用。seapは、iPad向けのアプリケーションをクラウド上で作成できるアプリ開発プラットフォームサービス。マルチデバイスに対応しているため、Windows PCからもアプリ制作が可能だ。ドラッグ&ドロップの直感的操作のみでiPadで使えるアプリが簡単に作成できる。本社で作成した資材の更新は、クラウド上のコンテンツ管理システム(CMS)で行われる。本社側で更新ボタンをクリックすればリアルタイムでMRのiPadからも閲覧・使用可能になる。

seap制作画面 画面上の指示に従い、項目をドラッグ&ドロップするだけでコーディングを自動的に行う。特別な知識がなくてもツールの作成が可能

プライマリー製品政策部 第3グループ 桐山明文氏

製品の施策立案やMR用資材の制作などを担当しているプライマリー製品政策部 第3グループ 桐山明文氏は、seapの効果についてこう語る。

「医師の意見を引き出してくれる力とMRの行動力を上げる力、両方に効果がみられます。インタビューの回答からは、医師が普段は話されないような感想を述べられていることも見受けられます。紙面のインタビュー時に比べ、回答数も上がっているので、MRもseapを活用すれば、医師にコンタクトしやすいと感じているのではないかと思います」(桐山氏)

seapの概要は、以下の動画の通りだ。


iPadの活用で、紙では不可能だったリアルタイムでの自動集計が可能に

seapのメリットは他にもある。医師がどのような回答や反応を示してくれたかという大切な情報を、リアルタイムで自動的に集計して本社からもすぐに確認できる点だ。

紙面でインタビューを行っていた頃は、管理や整理に時間を取られて業務効率が悪かったという。

「seapでは、インタビューの回答はiPadに保存されていますので、MRが通信可能な時にタップ一つで送信完了します。また、本社側でも、ダウンロードボタンをクリックするだけですぐに集計されたデータを入手することができます。今までの労力を思えば、考えられないほど便利になりました」(桐山氏)

情報伝達の格段のスピードアップを実現

seapの導入にあたり、資材作成を内製化できたことも革新的な効果だった。情報提供はスピードが大切である。「医師が欲しいと思う情報」をいち早く提供できれば、MRの存在感が増し、信頼関係の充実につながる。

「最新情報をいかに最速で医師に届けられるか。これでMRの存在感が変わります。学会情報といった治療に役立つ情報は、医師にとっても貴重な情報であり、医師と話し合いを行うチャンスです。そこで他社に出遅れると『その情報はもう聞いたよ』となり、意味がなくなってしまいます。MRの存在感を発揮するにはスピードが大事です」と、自身もMR経験がある中野氏は語る。

資材作成を外注すると、完成までにはどうしても時間がかかる。制作会社との打ち合わせから始まり、確認・修正といった工程が発生する。seap導入前は外注することもあったが、施策や医療従事者向けの説明会のタイミングに間に合わず、悔しい思いをしたこともあったという。

「seapの導入により、構想した資材を自席ですぐに作れるようになったので、スピード感が全く違います。作業が単純化して自分のペースで進められる。自分で作ればイメージそのままのものができますから。今は、納期に間に合うかどうかは自分次第ということになりますね(笑)」(桐山氏)。

今後、この手法による情報提供の頻度の向上、医師からのダイレクトな反応の把握と分析、またMRのプレゼン力の向上など、紙ではなかった効果が見込まれそうだ。

iPadを活用した同社の取り組みは着々と成果を上げている。MR中丸氏は、iPadが業務に欠かせないものになっていることを改めて実感するという。

「すき間時間に、iPadで説明会の予習や必要な資料に目を通したり、メールチェックしたり。待ち時間を有意義に使えるツールとしてiPadは役に立っています。医療従事者からの質問にもその場ですぐに対応できる。時間や労力が大幅に節約されたと感じています。今では当たり前になっていますが、iPadがなかった時代の業務スタイルに戻れと言われたらすごく困りますね」(中丸氏)