いまから60年前の1961年4月12日、人類初の宇宙飛行に挑んだユーリィ・ガガーリンの伝説を振り返るこの連載。第5回では、宇宙飛行後のガガーリンと非業の死、そして生き続ける伝説について取り上げる。

ヴォストークのその後

ヴォストーク宇宙船はその後、1963年までに全6機が打ち上げられ、すべてが成功した。最後の「ヴォストーク6」には、史上初の女性宇宙飛行士ヴァレンチーナ・テレシコーヴァ(ワレンチナ・テレシコワ)が搭乗し、「ヤー・チャイカ(私はカモメ)」という台詞で有名になった。

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    左から、ヴァレーリィ・ブィコーフスキィ(ヴォストーク5で飛行)、テレシコーヴァ(女性初の宇宙飛行士)、ガガーリン (C) TsENKI / Roskosmos

一方の米国は、ガガーリンの飛行から遅れること1か月足らずの1961年5月5日に、アラン・シェパード宇宙飛行士を乗せたマーキュリー宇宙船「フリーダム7」を打ち上げた。しかし、ヴォストークとは違い、軌道に乗らないサブオービタル(弾道)飛行であった。米国が軌道飛行に成功し、真の意味でガガーリンに追いつくには、1962年2月20日のジョン・グレン宇宙飛行士の「フレンドシップ7」まで待たなくてはならない。

だが、その前年の8月6日には、ソ連はガガーリンのチトーフが乗ったヴォストーク2による、丸1日を越える飛行に成功。さらに1962年8月には、ヴォストーク3と4を1日違いで打ち上げて軌道に投入。両者は5kmまで接近し、史上初の宇宙船による編隊飛行にも成功した。

人工衛星の打ち上げ競争に続き、有人宇宙船の分野でも先を越された米国は大きな衝撃を受け、同時に追い付くどころか引き離されつつある現状に焦りを覚えた。

そして1962年9月12日、当時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、ライス大学において「We choose to go to the Moon」の文言が入った、かの有名な演説を行う。こうして米国は、有人月着陸計画--「アポロ計画」という壮大な賭けに出るのであった。

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    ライス大学で「We choose to go to the Moon」の文言が入った、かの有名な演説を行うケネディ大統領 (C) NASA

ガガーリンのその後と非業の死

地球に帰還したガガーリンは、しばしの休息のあと、14日にはモスクワへ飛び、記念式典に参加した。

ガガーリンは大勢の観衆の熱い祝福を受け、フルシチョーフに任務完了を報告した。一方で、他の宇宙飛行士とコロリョーフら技術者たちは、暗殺や情報漏えいを恐れ、その名前すら明かされなかった。彼らは名もなき観衆のひとりとしてそこに存在していた。

一躍時の人となったガガーリンは、世界中を飛び回った。約30か国を回り、英国や日本にも訪れているが、米国には訪れていない。あまりの人気ぶりに、ケネディ大統領が拒否したとされる。

生ける英雄ガガーリンは、1962年にはソ連最高会議の代議員に選ばれ、会議と、そして相変わらずの凱旋の毎日を送った。好きだったスポーツも、ましてや飛行機の操縦や宇宙飛行士の訓練を続ける暇もなかった。カマーニンは日記で「会議や旅行の合間には、必然的に宴会がある。ガガーリンは飲酒量が増え、体重は8~9kgも増加した」と記している。

また、ソ連政府は事故で英雄を失うことを恐れ、ガガーリンを飛行機に乗せないようにした。

それでも、ガガーリンから空を飛ぶ情熱が失われたわけではなかった。1964年には宇宙飛行士訓練センターに舞い戻り、副所長として、新型宇宙船「ソユーズ」の開発などに関わった。また、戦闘機を操縦する資格も失効していたが、再取得すべく奔走。その結果、訓練を再開できることになった。

しかし、1966年1月14日にはコロリョーフが死去。この当時、ソ連の宇宙開発の大部分はコロリョーフが取り仕切っていたこともあり、そのリーダーを失ったことで勢いに陰りが見え始めた。

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    ガガーリン(左)とコロリョーフ(右)。1964年10月に撮影されたもの (C) TsENKI / Roskosmos

1967年には、ソユーズの最初のミッション「ソユーズ1」の準備が整い、ヴラジーミル・コマローフ宇宙飛行士が搭乗することが決定。ガガーリンはバックアップに選ばれた。しかし、ソユーズ1は打ち上げ後、トラブルが続出し、最終的にはパラシュートが展開せず墜落。コマローフは亡くなった。ガガーリンにとってコマローフは親友だったこともあり、「自分が代わりに乗っていれば」とひどく落ち込んだという。

コマローフの死により、ガガーリンも失うわけにはいかないとソ連政府の態度はさらに硬直化し、ガガーリンはその後の宇宙飛行の訓練や参加を禁じられた。

それでも彼はめげなかった。当時、米国のアポロ計画に対抗し、ソ連も有人月着陸計画を進めており、ガガーリンはそれに参加する意志を見せていた。

しかし1968年3月27日、飛行教官のヴラジーミル・セリョーギンと共にMiG-15UTIジェット練習機で飛行中に墜落。帰らぬ人となった。34歳だった。

墜落の原因はいまなお不明で、事故であるということはほぼ間違いないものの、その理由としては「故障、もしくは前に乗っていたパイロットのミスにより、コクピットの通気口が開いたままとなっており、飛行中に酸素不足に陥った」、「気球や鳥を避けようとしてコントロールを失った」、「近くを通過した戦闘機の後方乱気流を受けてコントロールを失った」といった説がある。

ガガーリンの遺骨は、赤の広場にあるクレムリンの壁に安置されている。

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    1967年、宇宙飛行に向け飛行訓練を行うガガーリン (C) TsENKI / Roskosmos

生き続ける伝説

ガガーリンの存在は、現在に至るまで多くの人々に影響を与え続けている。ガガーリンを目標に、多くの人が宇宙飛行士に憧れ、挑戦し、活躍している。

また、ガガーリンが打ち上げ前日に『砂漠の白い太陽』という映画を観たこと、打ち上げ直前に立小便したことは、現在でもバイコヌールから飛び立つ宇宙飛行士のほとんどが験担ぎとして模倣するイベントとなった。

さらに、モスクワの宇宙飛行士訓練センターは「ガガーリン宇宙飛行士訓練センター」に、ガガーリンが飛び立ったバイコヌールの発射台は「ガガーリン発射台」に、少年時代を過ごしたグジャーツクは「ガガーリン市」となるなど、いたるところにその名残がある。

ガガーリンを打ち上げたヴォストーク・ロケットも、その後改良が重ねられ、見た目はほぼ同じ「ソユーズ2」ロケットが、いまなお飛び続けている。ヴォストーク・カプセルもまた、長年偵察・地球観測衛星として活用され、そしていまなお、生物実験衛星「ビオーン」や微小重力実験衛星「フォトーン」として使われ続けている。

彼の宇宙飛行はわずか1時間48分と、ごく短いものであり、これは有人軌道飛行の最短記録でもあるが、彼の偉業と伝説は、人類が宇宙に挑み続ける限り、未来永劫語り継がれ、そしていつか宇宙の果てまで響き渡ることだろう。

  • ガガーリン

    1961年4月12日、宇宙飛行に挑む直前のガガーリン (C) Roskosmos

参考文献

https://www.roscosmos.ru/29977/
・Hall, Rex, and David Shayler. The rocket men : Vostok & Voskhod, the first Soviet manned spaceflights. London New York Chichester England: Springer Published in association with Praxis, 2001.
Gagarin - Encyclopedia Astronautica
ESA - Yuri Gagarin
Remembering Yuri Gagarin 50 Years Later | NASA