7.第7世代「K7(前期)」:AMDが最も輝いたAthlon時代の幕開け。

私のAMDでの経験を綴ったこのシリーズも、おかげさまで開始から2年以上も経っている(読者の皆様本当にありがとうございます!!)。始めた当時はこんなに続くとはつゆにも思わなかった。このシリーズの話をマイナビ編集部からいただいた時、私は迷わずK7から話を書こうと思った。その理由は、K7の時代はAMDが最も輝いた時で、業界全体がAMDとインテルの技術競争に注目していた時で、何よりも私自身が仕事人生で最も充実していた時期だからだ(「巨人インテルに挑め。とある男の回顧録」)。K7はその当時、まさに画期的なイベントだった。"CPUはインテル"と言われていた時代にインテルを技術的に凌駕する企業が現れた(実はずーっとやっていたのだが)、というのでかなり注目された。テレビのニュースにも取り上げられ、私も取材などにも駆り出され緊張もしたが、確かに面白い時代であった。総集編でこれまで振り返ってきた通り、AMDはインテルと同じ時代を生きてきたシリコンバレーの老舗半導体企業であるが、マイクロプロセッサ市場での切磋琢磨の歴史はいつまでも成熟しない"やんちゃ業界"のそれであり、半導体ビジネスのエッセンスがまさに凝縮されている。

当時のAMDは、インテルとの裁判沙汰の闘争も終わり、K6で見事に戦線復帰を果たし、名実ともにx86 CPU市場でのメジャー・プレーヤーになっていたが、AMDにはどうしてもやり遂げたい野望があった。K5でやろうとしながら、見事に失敗した"インテルを超える"という野望である。その野望を持っていたのは根っからのAMDエンジニアだけではなかった。インテルに喧嘩を売って敗れ去ったいくつかのインテル互換CPUメーカーのエンジニアたちも同じであった。捲土重来を期してNexGen、Cyrix、IDTなどの互換プロセッサメーカーからAMDに集結したエンジニアたちのインテル打倒にかける情熱には非常に熱いものがあった。以前の記事にも書いた通り、当時のAMDはこれらのギラギラしたエンジニアたちが集結するCPU開発の梁山泊であったと思う。私がK7プロジェクトの概要を知ったのは、多分発表の1年位前だったと記憶している。聞いた時にあまりにも野心的なのでにわかには理解できず、正直かなり引いてしまったことを憶えている(「どうしてお前の発想はそう日本的なんだ?!」)をご参照)。

シリコンバレーのベンチャー・スピリットには独特のものがあり、未だに日本企業でも最先端を目指す場合には、少なくとも現地に事務所を置いて、常に新しいアイディアが生まれる環境でアンテナを張る必要性があることを認めている。最近では、中国、インド系のエンジニアが圧倒的に多くなってしまったが、当時は日本人の優秀なエンジニアの中にも最先端を目指してシリコンバレー企業で働く人たちが沢山いた。

発表:1999年
ビット幅:32ビット
動作速度:500-1000MHz
トランジスタ数:2200万個
プロセスルール:250nm-180nm

K7はAthlonというブランドで500MHzから市場投入された。最初の製品は0.25μmプロセス技術でスタートしたので、512KBのL2キャッシュはCPUダイに集積することができずにオフ・ダイとなり、インテルのPentium IIのようにスロットパッケージ(Slot A)で登場した。もともとDECのワークステーション用に開発された高速バスEV6を採用する先進的アーキテクチャの採用でインテルもかなり衝撃を受けたはずである

今回、私のCPUコレクションを整理するにあたり、Slotタイプ(Slot A)の初代K7 Athlonが複数個出てきた。すべて電気的に生きているものばかりであるが、実際に差して使うマザーボードはなくなっているので、AMD勤務当時は禁じ手と言われていた所謂「殻割り」をやってみた。

「殻割り」とは当時自作ユーザーの間で流行っていたスロットを無理やりこじ開けて、CPUボードをむき出しにする手法である。当時の愛好者のWebサイトなどにまだ記事が残っていたので、それを参考にやってみたが、実際やってみるとなかなか骨の折れることであった。自作ユーザーの「殻割り」の目的は「オーバークロック」(スペック以上の周波数でCPUを動作させ、最高スピードを競い合う)である。発表当時のK7 Athlonは500MHzからスタートしたが、深いパイプラインを備えたK7のアーキテクチャには大いにクロックアップの余裕があり、自作ユーザーたちもこれをよく知っていたのだ。ここに私の悪戦苦闘後の「殻割り」の結果写真をご披露するが、ドライバーでスロットの固い外部ケースをこじ開けるのにはかなり乱暴なことをしなければならなかった。結果、PCBボードの辺に傷をつけてしまい使い物にならなくしてしまった(所謂"お釈迦様"である)。当時は、一回の失敗でも懲りずに、何個かCPUを買って見事にオーバークロックを果たし、その結果をWebサイトで披露する豪傑ユーザーもかなりいた。実際、このシリコンはK75コアで0.18μmプロセスに移行すると、一年もたたずに1GHzの壁を突き抜ける快挙を果たすことになる(拙稿「1Gを突破せよ、インテルに出し抜かれてはならない」"ご参照)。それだけK7のアーキテクチャは優れていて、登場した時点ですでに大きな性能向上のポテンシャルを有していたことになる。

確か、「Gold Finger」と呼ばれる端子があり、その端子をどこかにはんだ付けするとオーバークロック解除ができるということであったが、今では詳細は覚えていない。当時AMDはアメリカの大学で勉強する学生を新入社員としてリクルートする活動をやっていて、私もボストン、サンフランシスコなどで行われる"Job Fair"にリクルーターとして駆り出されたことが何度かあったが、AMDブースに集まった学生たちの何人かはこのオーバークロッカーがいて、就職そっちのけでオーバークロックに関する質問が殺到して困ったことを憶えているほどである。

禁断の殻割の結果写真(注:絶対にマネしないでください!!)。左右にL2キャッシュを従え、中央に鎮座するのがK7 CPU。まさに助さん、角さんを従える水戸黄門の威容である。チップのマーキングを確かめると550MHzであることがわかる。多分K7のかなり初期の製品であろう。過去の拙稿「Benが明かしたBigなPlanとは」もご参照

8.第7世代「K7(後期)」:Athlon/DuronでAMDとインテルが互角に死闘を繰り広げる

独自コアのK7はその後AMDの成長を支える大きな原動力を担った。500MHzで登場し、インテルのトップスピードを凌駕したこのスケーラブルなアーキテクチャは、その後もどんどん改良が加えられ1.4GHz(Athlon世代はK7/K75で1GHz、Thunderbirdで1.4GHz、次代のAthlon XPシリーズでは最大2.33GHzに到達)までスピードを上げていった。AMDのシェアは各国で上昇し2001年には20%を超えた(拙稿「インテルのAMDビジネスへの妨害」ご参照)。このころのAMDとインテルの関係はともに切磋琢磨しながらどんどん技術水準を上げていった時期で、最も健全かつエキサイティングな時期であったと思う。

発表:2000年
ビット幅:32ビット
動作速度:700-1400MHz
トランジスタ数:3700万個
Thunderbird Core
プロセスルール:180nm

プロセスが180nmになって初代では外部にあったL2キャッシュもCPUダイに集積されてスロット型からソケット型(Socket A)になった。このコアは「Thunderbird(開発コードネーム)」と言われ、オーバークロック時に発熱でCPUが死んでしまうこともあって、当時は"焼き鳥"と揶揄されていた

発表:2000年
ビット幅:32ビット
動作速度:600-950MHz
トランジスタ数:2500万個
Spitfire Core
プロセスルール:180nm

日本市場で最も出回ったK7コアによる廉価版プロセッサ「Duron」の珍しい写真である。自作ユーザーが好むAthlonよりは性能をやや抑え気味のDuronは、ブランドパソコンに組み込まれて、当時のデスクトップパソコンの主流CPUとなった。2002年にはコンシューマ・デスクトップパソコンのカテゴリではインテルシェアを抜き去った(「インテルのAMDビジネスへの妨害」ご参照)

K7はCPUコアにどんどん改良を加えていったので、それぞれのコアの開発コードネームにいろいろ懐かしい思い出がある。最初は第二次大戦の連合軍側の「サンダーバード(Thunderbird)」、「スピットファイア(Spitfire)」などの戦闘機の名前を使っていたが、それがAMDの主力工場である旧東独のドレスデン工場の従業員から猛反発を受け(連合軍の空襲で市の80%を破壊された歴史があるのだから当たり前である)、その後は「パロミノ(Palomino)」、「モーガン(Morgan)」、「サラブレッド(Thoroughbred)」などの馬の種類に替えられた(拙稿、「CPUコアのコードネーム」ご参照)。

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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