大船の街路を歩いていると、時折、「ゴーッ」という大きな音とともに、青空をバックに銀色の車体が頭上を駆け抜けていく。世界的にも珍しい懸垂型モノレールの湘南モノレール江の島線だ。神奈川県鎌倉市の大船駅と藤沢市の湘南江の島駅を結ぶ全長6.6kmのこの路線が全線開通を果たしたのは1971(昭和46)年7月2日。今年で55周年を迎えた。

  • <!-- Original start --></picture></span>大船駅付近のS字カーブを走る、開業間もない湘南モノレール。当時はこのあたりからも大船観音が見えた(提供 : 湘南モノレール)<!-- Original end -->

    大船駅付近のS字カーブを走る、開業間もない湘南モノレール。当時はこのあたりからも大船観音が見えた(提供 : 湘南モノレール)

筆者は『湘南モノレール全線開通50周年誌』の執筆を手がけた。あれから5年が経つ。当時まとめた資料を改めて読み返すと、江の島とモノレールの意外にも深いつながりが見えてくる。

戦前にもあった江の島モノレール計画

湘南モノレールの終点・湘南江の島駅は、駅ビルの5階がホームという珍しい造りだ。改札口を出た先に設置されているルーフテラスから江の島方面を一望することができ、その開放的な眺めは訪れる人々を飽きさせない。だが、同時に「このまま軌道を延長して、江の島の島内までモノレールが乗り入れてくれたら便利なのに……」と想像する人も少なくないはずだ。

じつは、片瀬海岸と江の島島内をモノレールで結ぶという構想は、戦前・戦後の2度、浮上したことがある。

最初の計画は1927(昭和2)年3月、現在の「江ノ電」こと江ノ島電鉄が、片瀬海岸と江の島島内を結ぶ架空索道線(ロープウェー)の敷設免許を申請したことから始まる。同年8月には、「架空索道よりも輸送力で勝る懸垂鉄道」(『江ノ電の100年』江ノ島電鉄編)、すなわち懸垂型モノレールに計画を変更し、翌年7月に免許を取得している。

当時、国内にはモノレールなどまったく存在しなかった。それにもかかわらず、このような構想が生まれた背景には、1901(明治34)年3月に開業したドイツのヴッパータール空中鉄道の存在があった。

ケルン大聖堂で知られるケルン市からほど近いドイツ西部の都市・ヴッパータールは、ルール工業地帯の発展にともない交通量が増大していた。しかし、ヴッパー川沿いの狭隘(きょうあい)な平地に市街地が広がる特殊な地形ゆえ、地上には新たに鉄道を敷設する余地が乏しかった。そこで、おもに川の上空を利用し、全長約13kmのモノレールを建設したのである。ヴッパータール空中鉄道はいまも現役で活躍している。

このドイツの画期的な交通機関の情報は科学誌や少年誌を通じて日本でも紹介され、各地で十指に余る「懸垂鉄道」が計画された。その中で、戦前期に唯一、免許取得にまで至ったのが江の島の懸垂鉄道計画だった。その後、江ノ島電鉄は本業である電鉄事業に投資の重点を置くため、「付帯的な懸垂鉄道は別会社の事業」(『江ノ電の100年』)とすることにした。

  • <!-- Original start --></picture></span>住民の反対運動から懸垂鉄道計画が進展していない様子を伝える記事(昭和5年8月3日付「横浜貿易新報」)。片瀬から江の島へ渡り、さらに稚児ヶ淵へ至る計画だった<!-- Original end -->

    住民の反対運動から懸垂鉄道計画が進展していない様子を伝える記事(昭和5年8月3日付「横浜貿易新報」)。片瀬から江の島へ渡り、さらに稚児ヶ淵へ至る計画だった

新会社は、「江ノ島懸垂電気鉄道」「日本懸垂電気鉄道」「空中電気鉄道」と社名を変えながら計画の実現を模索した。だが、結局、「地元住民の猛烈なる反対運動」(「横浜貿易新報」昭和5年8月3日)に遭い、「技術的な問題」(『江ノ電の100年』)も克服できず、このモノレール構想は幻に終わった。

戦後に再びモノレール構想が浮上

それから約30年の時を経た戦後の1960年代になって、あたかも戦前の計画が復活したかのようなモノレール建設構想が浮上した。後に湘南モノレールの設立母体となる日本エアウェイ開発(三菱重工などが出資)によるもので、1962(昭和37)年10月、片瀬西浜と江の島島内を結ぶ約770mのモノレールの敷設免許が申請された。

この計画は、当時の社会・経済情勢を背景に生まれたものだった。

高度経済成長期のまっただ中にあった我が国では、都市部の交通渋滞が慢性化し、市電(路面電車)の定時運行が不可能になっていた。市電に代わる交通手段として地下鉄は有力な選択肢だったが、その建設には莫大な費用がかかる。そこで脚光を浴びたのが、都市の街路上空を有効活用でき、地下鉄の4分の1程度のコストで建設可能とされたモノレールだった。

国内の各メーカーは海外企業と提携し、モノレールの技術導入・開発にしのぎを削った。その代表例が、日立製作所が西ドイツから輸入した「アルヴェーグ式」と、三菱グループが主導したフランスの「サフェージュ式」だった。前者は軌道にまたがる跨座(こざ)型、後者は軌道からぶら下がる懸垂型である。

導入が先行したのは日立のアルヴェーグ式で、1962(昭和37)年3月に愛知県の犬山遊園モノレールが開業した。これに対抗するため、日本エアウェイ開発が計画したのが江の島モノレール(片瀬西浜~江の島島内)だったのである。

  • <!-- Original start --></picture></span>海上を行く江の島モノレール(片瀬西浜~江の島島内)の完成イメージのイラスト(提供 : 湘南モノレール)<!-- Original end -->

    海上を行く江の島モノレール(片瀬西浜~江の島島内)の完成イメージのイラスト(提供 : 湘南モノレール)

当時、江の島では日本初の屋外型エスカレーター「エスカー」が整備されるなど観光開発が進み、間もなく開催される東京オリンピックでヨット競技の会場になるという期待感も膨らんでいた。一方で、「湘南港」建設に伴う埋立により、景観・地形が改変され、国の史跡・名勝指定が取り消された時期でもあった。

こうしたことから、このモノレール構想は神奈川県の内山岩太郎知事(当時)と島民の猛反対に遭い、頓挫する。江の島モノレール計画は、戦前に続き、再び幻と消えたのだ。

そして、現在の湘南モノレール建設へ

その後、日本エアウェイは名古屋市の東山公園モノレールを開業させたものの、この路線は全長471mと短く、急勾配や風雨雪にも強いとされるサフェージュ式の技術的優位性を示せなかった。一方、日立陣営は1964(昭和39)年10月、東京モノレール羽田線を開業させ、それまで遊戯物や遊園地への短いアクセス手段にすぎなかったモノレールを本格的な都市交通としてデビューさせることに成功した。

この状況に危機感を抱いた日本エアウェイは、大船~片瀬間を結ぶ京浜急行自動車専用道路上にモノレールを架けるという斬新な構想を打ち出す。この道路は当時、京浜急行電鉄が運営する有料道路だったが、その上空を利用すれば用地費が抑えられるとの目算があった。また、沿線には国鉄や三菱の工場があり、終点には観光地・江の島も控えているなど、一定の輸送需要も期待できた。

  • <!-- Original start --></picture></span>建設中の湘南モノレールの軌道。現・富士見町駅側から小袋谷跨線橋(横須賀線との立体交差)を望む。サフェージュ式は箱形の軌道の中をゴムタイヤで走行するため、急勾配や風雨雪にも強いとされる(提供 : 湘南モノレール)<!-- Original end -->

    建設中の湘南モノレールの軌道。現・富士見町駅側から小袋谷跨線橋(横須賀線との立体交差)を望む。サフェージュ式は箱形の軌道の中をゴムタイヤで走行するため、急勾配や風雨雪にも強いとされる(提供 : 湘南モノレール)

こうして建設されることになったのが、現在の湘南モノレールなのである。しかし、実際に着工すると、大船駅周辺および片瀬地区での用地買収は困難を極めた。また、起伏の激しい丘陵地帯を走るため、懸垂型モノレールとしては世界初となる2つのトンネル(鎌倉山・片瀬山)の掘削を伴う難工事も立ちはだかった。わずか6.6kmの路線ながら、全線開通までにはさまざまな課題を克服しなければならなかったのだ。

なお、現在の終点・湘南江の島駅は当初、途中駅の位置づけだった。本来はさらに海寄りに江の島海岸駅を設置する予定だったが、海岸までの用地確保が難しく、1986(昭和61)年に延伸を断念した。

振り返ると、モノレールの江の島への道のりは、どこまでも遠かったのである。