モノレール廃線跡を歩く

では、実際に現地に足を運び、姫路モノレールの廃線跡を探索してみよう。JR姫路駅北口を出ると山陽百貨店がある。その南側から西進する道路が駅西線だ。この駅西線の1本北側の路地に足を踏み入れると、モノレールの遺構が目に入る。

その光景はシュールで、かなり強い印象を受ける。モノレールの支柱が、まるで建物の屋根上に「チョンマゲ」が生えているように見えるのだ。もちろん、支柱を建てるには基礎工事が必要であるから、正確には地面に立つ支柱を囲むように建物が建てられているのだが。

  • <!-- Original start --></picture></span>建物の屋根に「チョンマゲ」が生えているように見えるモノレールの支柱。その向こうには山陽電鉄の高架が見える(筆者撮影)<!-- Original end -->

    建物の屋根に「チョンマゲ」が生えているように見えるモノレールの支柱。その向こうには山陽電鉄の高架が見える(筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>山陽電鉄の線路をオーバークロスするモノレール(提供 : 姫路市)<!-- Original end -->

    山陽電鉄の線路をオーバークロスするモノレール(提供 : 姫路市)

「チョンマゲ」を見ながら歩いていくと、まもなく山陽電鉄の高架が見えてくる。モノレールは、この高架のさらに上を「14.8mの高さでオーバークロス」(「姫路市営モノレール」藤井信夫著・鉄道ピクトリアル1970年4月号掲載)していた。

高架を越えると、その先に唯一の中間駅である大将軍駅があった。同駅は、姫路市と住宅公団が共同で建設した「高尾アパート」という10階建てのビルの3~4階をモノレール駅として利用し、1~2階を店舗、5~10階を賃貸住宅(全62戸)として活用したものだった。ビルの中空をモノレールが出入りする斬新な建築だったが、老朽化のため、2016~2017年にかけて解体されてしまった。

  • <!-- Original start --></picture></span>大将軍駅。ビルの中空をモノレールが出入りする斬新な建築。残念ながら取り壊されてしまった(提供 : 姫路市)<!-- Original end -->

    大将軍駅。ビルの中空をモノレールが出入りする斬新な建築。残念ながら取り壊されてしまった(提供 : 姫路市)

  • <!-- Original start --></picture></span>大将軍駅跡の現在の様子(筆者撮影)<!-- Original end -->

    大将軍駅跡の現在の様子(筆者撮影)

大将軍駅は住人らの利用を見込んで設置されたものの、姫路駅起点0.5kmと距離が近すぎ、また、モノレールの運賃が高額だったこともあってほとんど利用されなかった。1967(昭和42)年12月の同駅利用者は1日平均7人、乗客ゼロの日が7日間もあったという(神戸新聞1968年1月28日付)。そのため1968(昭和43)年2月からは駅業務を休止し、通過駅となったが、列車通過時の轟音が上層階にまで響き、徐行運転せざるをえなかったという。

大将軍駅を過ぎると、すぐに産業道路(県道62号姫路港線)をまたぎ、軌道は大きく南へカーブする。ここから船場川の流れに沿って進み、途中、国鉄山陽本線(当時は地平を走行)をオーバークロス。この船場川沿いにも、軌道の遺構がいまも残されている。

文化センター前通りに架かる月見橋付近でモノレールは船場川を渡り、60‰(パーミル。1km走るごとに60m上昇)の勾配を上る。最後はレンガ造りの手柄山駅に、吸い込まれるようにホームに到着した。

  • <!-- Original start --></picture></span>船場川沿いのモノレール軌道の遺構。支柱だけでなく桁部分も残っている(筆者撮影)<!-- Original end -->

    船場川沿いのモノレール軌道の遺構。支柱だけでなく桁部分も残っている(筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>軌道桁の断面。かなり狭く、これでは遊歩道やサイクリングロードには転用できない(筆者撮影)<!-- Original end -->

    軌道桁の断面。かなり狭く、これでは遊歩道やサイクリングロードには転用できない(筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>手柄山駅に進入するモノレール。このレンガ造りの手柄山駅は、現在は「手柄山交流ステーション」として使用され、保存車両を展示するなどしている(提供 : 姫路市)<!-- Original end -->

    手柄山駅に進入するモノレール。このレンガ造りの手柄山駅は、現在は「手柄山交流ステーション」として使用され、保存車両を展示するなどしている(提供 : 姫路市)

旧・手柄山駅は現在、「手柄山交流ステーション」という市の施設になっており、2階の展示室には、かつて活躍したモノレールの車両が保存・公開されている。姫路モノレールには、片運転台式の101・102号車と両運転台式の201・202号車、合計2編成4両が在籍したが、保存されているのはこのうちの201・202号車である。

姫路モノレールは、なぜ失敗したのか

姫路モノレールはわずか1.6kmの路線であり、廃線跡はゆっくり歩いても30分もあればたどれてしまう。それにもかかわらず、総工費は「駅などの建造のために買収した用地、家屋移転補償費などを含めると十五億円を越える巨費が投じられた」(神戸新聞1966年5月15日付)という。ちなみに、1958(昭和33)年に完成した東京タワーの建設費は約30億円だった。

なぜこのような莫大な投資をしたにもかかわらず、姫路モノレールは短期間で姿を消すことになったのか。理由は、巨額の初期投資に加え、開業後の利用低迷である。博覧会の会期中こそ盛況だったが、閉会後の72日間の乗客は1日平均938人。1日に3,460人乗れば収支が見合うとの試算だったが、その3分の1にも満たない数字である。

  • <!-- Original start --></picture></span>モノレール手柄山駅の地上部分。当時の建物は取り壊され、現在は別な建物になっている(提供 : 姫路市)<!-- Original end -->

    モノレール手柄山駅の地上部分。当時の建物は取り壊され、現在は別な建物になっている(提供 : 姫路市)

開業翌年の1967(昭和42)年4月に実施された姫路市長選挙では、モノレールが「論戦の最大焦点」(神戸新聞1967年10月25日付)となった。石見は6期目をめざして出馬したものの、革新系の吉田豊信に大差で敗れた。モノレールは、市民の間でも不評だったのだ。

こうしてモノレール延伸の夢は断たれ、短小路線のまま営業が続けられたものの、利用者数はその後も低迷し続けた。開業初年の1966(昭和41)年度こそ40万2,967人の利用があったが、1968(昭和43)年度には24万5,718人まで落ち込み、以後は20万人台の低空飛行を続けた。当初見込んでいた年間利用者126万人には遠く及ばなかった。

この間、毎年1億円以上の損失を出し続け、開業5年後の1971(昭和46)年度時点で累積欠損金は約7.5億円、運行を休止した1974(昭和49)年度には11.4億円にも達した。

  • <!-- Original start --></picture></span>姫路モノレール保存車両。製造は川崎航空機が担当。軽量化のためボディーにはアルミ合金が使用され、航空機製造の技術を生かしたセミモノコック構造が取り入れられている(筆者撮影)<!-- Original end -->

    姫路モノレール保存車両。製造は川崎航空機が担当。軽量化のためボディーにはアルミ合金が使用され、航空機製造の技術を生かしたセミモノコック構造が取り入れられている(筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>モノレール展示車両の車内。「未来の乗り物」にふさわしいモダンな造りだ(筆者撮影)<!-- Original end -->

    モノレール展示車両の車内。「未来の乗り物」にふさわしいモダンな造りだ(筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>展示車両の運転台(筆者撮影)<!-- Original end -->

    展示車両の運転台(筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>設計最高速度は120km/hだったが、路線が短いこともあり、実際には「10」「30」「50」の現示信号に従って走行した(筆者撮影)<!-- Original end -->

    設計最高速度は120km/hだったが、路線が短いこともあり、実際には「10」「30」「50」の現示信号に従って走行した(筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>手柄山交流ステーションに設置されている姫路モノレール時刻表(筆者撮影)<!-- Original end -->

    手柄山交流ステーションに設置されている姫路モノレール時刻表(筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>車体下部のスカートを跳ね上げると現れる下部安定輪。軌道を挟み込み、バランスをとる(特別に許可を得て筆者撮影)<!-- Original end -->

    車体下部のスカートを跳ね上げると現れる下部安定輪。軌道を挟み込み、バランスをとる(特別に許可を得て筆者撮影)

  • <!-- Original start --></picture></span>軌道側面に取り付けられている集電用の第三軌条(特別に許可を得て筆者撮影)<!-- Original end -->

    軌道側面に取り付けられている集電用の第三軌条(特別に許可を得て筆者撮影)

さらに追い打ちをかけたのが、各メーカーの仕様が乱立気味であったモノレールの規格統一の動きだった。日本モノレール協会の研究により、跨座型モノレールについては、アルヴェーグ式の改良型である日本跨座式(床面を高くし、客室内の床をフラットにした)が都市モノレールの標準仕様として採択されることになった。

この結果、販路を失った日本ロッキード社はモノレール事業からの撤退を余儀なくされ、「設計図を引き継いだ川崎重工も簡単には部品をつくれない」(神戸新聞1974年10月21日付)ことから、姫路モノレールは部品調達もままならなくなった。こうした複数の要因から、早期に休止・廃止されることになったのである。

だが皮肉なことに、1972(昭和47)年にモノレールを都市計画道路上に建設し、建設費の一部を道路会計から国庫補助する都市モノレール法が施行されると、その後、北九州、千葉、大阪、多摩(東京)、沖縄で同法にもとづく都市モノレールが建設され、現在も活躍している。姫路モノレールは、あまりにも時代を先取りしすぎたのだ。