
エンスージアスト心をくすぐるイベント「名車研究」。歴史に名を刻んだ名車を厳選し、間近で実車を眺めながらその車をとことん極めるべく、モータージャーナリストの西川 淳氏が、オーナーとの対談セッションを通じて名車の魅力や物語に迫っていく非公開イベントだ。今回のテーマは「トヨタ2000GT」。なかでも非常に希少なオープントップスタイルの車両について掘り下げていく。
【画像】スクラップ状態から8年にわたるレストアで蘇った、希少なトヨタ2000GTオープントップ(写真13点)
東京都渋谷区・明治通り沿い、渋谷と恵比寿の中間あたりに Peaches. Japan Garageはある。車とアート、ファッションを融合させたモダンカルチャーのオフライン発信源。2025年に店内にオープンしたカフェが今回の名車研究の舞台となった。
テーマはトヨタ 2000GT。それも、あまりに有名なロードスターボディの”ボンドカー”というから名車研究にふさわしい。まずは当日のプログラムと同様に、トヨタ2000GTについておさらいしておこう。
トヨタ2000 GT
トヨタ自動車とヤマハ発動機という国産2&4トップメーカーのコラボで誕生した日本車史上最も有名なスポーツカーである。1964年秋に企画スタート。翌年早々にトヨタ側の開発主力メンバーがヤマハへと出向し、その受け皿としてヤマハに自動車部が発足する。二輪 GPマシン王者メーカーとして世界最高峰にあったヤマハにもまた創立以来ずっと(おそらく今なお)四輪部門への参入意欲があった。そして当時のトヨタにはなかった技術と経験がヤマハにはあった。たとえばDOHCヘッドのノウハウであったり、FRP 成型に内装用ウッドマテリアル製作であったりといった点である。
正式デビューとなったのが1967年の5月16日。もっとも世間の人々がその日に初めて”トヨ2”を見たというわけではない。その2年前、1965年10月の東京モーターショーでプロトタイプがすでに披露されていたし、翌66年5月にはなんと第3回日本グランプリに出場(!)さえしている。さらに同年7月の鈴鹿1000kmレースでは1-2フィニッシュで優勝するなど、正式デビューの前から車好きの注目を集めていたのだ。なかでも同年10月に谷田部で開催されたFIA公認スピードトライアルにおける3つの世界記録達成という偉業は、発売前にして早くもトヨタ2000GTを名車の一員たらしめた。
日本車として初めて007映画に出演
そして5月の発表とほぼ同時期、6月7日に公開された映画『You Only Live Twice』(邦題『007は二度死ぬ』)にも登場する。日本車として初の出演。実をいうと本編においてショーン・コネリー演じるところのジェームズ・ボンドが2000GTをドライブするシーンはなかった。あくまでもアキ(若林映子)の助手席であった。もっとも若林も2000GTに運転はもちろん座ってもいない。激しいドライブシーンは当然、当時のトヨタワークスドライバーが代役を務めた。
ちなみにアキとボンドのドライブシーン(スタジオ撮影の部分のみ)ではアルファロメオ・スパイダーが使われている。ボンド自身がドライブしていないため、2000GTがボンドカーであるかどうかを巡って映画マニアの間では常に論争があるわけだけれど、世界的に有名な007映画に出演し重要や役割を演じた初の日本車であることに違いはない。
それはさておき、”ボンドカー”としての2000GTが人気を博した理由は、ただ単に世界的に有名な映画に登場した日本車だからではなかった。そのロードスタースタイルが世にも美しいものだったからだ。長身(約1.9m)のコネリーがクーペでは狭くて乗りこめなかったから屋根を切った、ともいわれている。
プロトタイプのテストカーをベース(数台あったうちからたまたまワイヤーホイールを履いていた2台をチョイス)に突貫工事でロードスター化したそのスタイリングは、制作時間が絶望的になかったにも関わらずあまりにも美しくまとまっていた。以後多くのコンバージョンが生まれるほど、2000GTファンはもちろん、すべての車好きを魅了してきたのである。
”2000GTボンドカー”は2台製作されていた!
映画用に製作された2000GTのロードスターは、実は2台。長年、そうウワサされてきた。うち1台は実際に劇中車として映画にも登場。ペースカーや海外でのレンタカーなど数奇な運命をたどったのちに、現在は収まるべき場所=トヨタ博物館に里帰りを果たしている。それではもう1台は、一体どこに行ってしまったのか?やっぱり1台しか製作されなかったのだろうか…
長年にわたってマニアが抱いていた疑問への最終回答を出したのが、日本を代表するカーコレクターであり、とりわけトヨタ2000GTに造詣の深いオートロマンの諸井猛さん、今回の名車研究における対談のお相手だ。”オートロマン”という商標に関する逸話も当日は披露されたが、ここでは割愛する。そうした秘話はリアルに参加した人のみが知ることのできる情報でなければならない。
諸井さんは国内某所にて長年にわたり打ち捨てられた同然の状態でしまい込まれていた”もう1台のボンドカー”の存在情報をいち早くつかんでいた。ある時、アメリカの2000GTコレクターが買いに来るという情報が諸井氏の耳に入る。氏はすぐさま行動に移し、オーナーに掛け合って譲ってもらうことになった。あとからアメリカのコレクター云々話はどうやらガセだと知ったけれど、とにかくもう1台のボンドカーは結果的に収まるべきところに収まったのだった。
とはいえ多くの歳月を露天に放置されて過ごしてきたためか、コンディションはサイアクと言っていいものだった。しかも倉庫の中で無造作に積み上げられた荷物の重みで、車体は無残にも変形していた。
諸井さんはそんなボンドカー#2のレストアを決意する。ちなみに買ってすぐ、奥様に報告することは躊躇われたらしい。そりゃそうだ、それは見るからにスクラップ車だったのだから。
8年にわたるレストレーション
当然のことながらレストレーションは困難を極めた。何しろ元からしてプロトタイプがベースだから67年の正式発表以降の市販モデルとは似ているようでいて細部がまるで違っていたのだ。クーペをロードスター化するにあたって使われた基本データも残っていない。否、突貫工事だったゆえ、そんなものもあったのかどうか。おそらくほとんどの作業が現場合わせで進んだに違いない。
諸井さんは2000GTボンドカーにまつわるありとあらゆる資料を集め映像や写真を分析しつつ、復元の参考にした。なかでもエンジンに関してはプロトタイプ仕様が奇跡的に積まれたまま残っていた。歴史的にみても貴重な資料である。なんとか再び火を入れたかった。ちなみに博物館にあるもう1台のボンドカーは残念ながらエンジン積み替えである。
結局、レストレーションは足掛け8年にもわたった。サビで落ちたボディパネルの復元が冗談抜きでひと月に数ミリ進んでいるかどうか、というレベルの時さえあった。最後の一年は急ピッチだったが、それは2017年のトヨタ2000GT生誕50周年に合わせるためだった。
蘇ったもう1台のボンドカー。マーケティング用であり、劇中車の代役でもあったであろう。名車研究の当日にはレストレーション最中の様々な発見について諸井さんから興味深い話が多く出た。すべてを書き出すと紙幅が足りない。ここではひとつだけエピソードを紹介しておこう。
エンジン周りをバラしていくと、ラジエター会社の名前と連絡先の入ったステッカーを発見した。それは栃木県足利市に現存する会社だった。ステッカーが貼られていたラジエターは前期型純正のアルミ製。日光でテスト走行をするために移動している最中になんらかのトラブルでラジエターが破損し、急遽、近くにあった地元の会社に駆け込んで修理を依頼したのだろうと諸井さんは語ってくれた。日光の例幣使街道でテスト走行をする当時の写真も資料として残っている。
現存するその会社に連絡を取ってみたところ、当時のことを知る人はもういなかったし、記録もなかった。けれども諸井さんと新たな付き合いが始まったという。というのも諸井さんは足利に縁も深く、オートロマンも今はすぐ近くに拠点を構えているからだ。
やはり重要な個体は収まるべきところに収まって、また物語を紡ぎはじめるものである。
文:西川淳 写真:佐藤亮太 資料提供:諸井猛氏
Words:Jun NISHIKAWA Photography:Ryota SATO Reference Materials:Takeshi MOROI

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