東京湾の埋立地、豊洲と晴海の間の晴海運河に架かる「晴海橋りょう」が「春海橋公園遊歩道」として整備された。この橋は1957(昭和32)年に完成し、当時は貨物列車が走ったという。1989(平成元)年に貨物線が廃止された後もポツンと残され、テレビの散歩番組や雑誌などで「気になる橋」として紹介された。この橋はかつてどんな役目を持っていたのだろう。
晴海橋りょうは、かつて「臨港鉄道港湾局専用線晴海線」の一部だった。臨港鉄道港湾局専用線は、東京港の芝浦埠頭・日の出埠頭・晴海埠頭・豊洲埠頭などを網羅する貨物専用線路。貨物船と国鉄の貨物列車を中継する役目があり、晴海線は深川線とともに晴海埠頭・豊洲埠頭と越中島駅貨物駅を結んだ。その他にも、芝浦線と日の出線が芝浦埠頭・日の出埠頭と汐留貨物駅の一角を結んでいた。
晴海線は深川線から分岐して晴海埠頭に至る路線だった。晴海埠頭内では、さらに小野田セメント、日本水産、日東製粉の工場へ向かう分岐線があり、おもな貨物は新聞用巻取紙、輸入小麦、大豆、セメント、雑貨などだった。国鉄路線の末端路線という位置づけであり、開業当初は貨車も機関車も国鉄の車両が使われていた。
後にD60形やD25形といった港湾局のディーゼル機関車が投入され、晴海線と深川線で共通に運用されたようである。このうちD25形は、製造会社の加藤製作所が解説パネルとレプリカの銘板を提供し、遊歩道の豊洲側入口付近に設置された。
臨港鉄道港湾局専用線の歴史は
東京港に臨港鉄道が建設されたきっかけは、1923(大正12)年の関東大震災だった。鉄道も道路も被災し、救護や物資の船舶輸送が急務となった。しかし、当時は横浜港が輸送や貿易の拠点港であり、東京港の規模は小さかった。そこで東京港の整備が始まり、1930(昭和5)年に日の出埠頭と汐留駅を結ぶ「芝浦臨港線」が開業。1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、大陸方面の輸送と軍需輸送の必要から芝浦ふ頭まで延長された。
一方、晴海埠頭・豊洲埠頭方面の臨港鉄道は戦後から整備された。戦時中に鉄道省が総武本線の貨物支線を延長して越中島まで建設しており、戦後の1950(昭和25)年に越中島から石炭埠頭に至る深川線が開業した。
豊洲埠頭の歴史は石炭埠頭から始まる。戦後の経済発展のため、国家の重要事業として整備された。その後、鉄鋼埠頭、東京ガス工場や発電所に向けた埋立てによって現在の姿となった。深川線は豊洲埠頭を網羅する支線がつくられ、最も多い貨物は石炭とコークスだった。東京ガスは石炭を原料として都市ガスを製造し、副産物として発生したコークスを出荷した。
晴海地区の埋立工事は明治初期から始まり、約76haの完成は1931(昭和6)年だった。東京市庁舎の移転計画が市議会で決議されたが、反対論が多かったため実施されず、1940(昭和15)年の東京オリンピック併催の万国博覧会会場とする計画もあったが、第ニ次世界大戦で中止。戦時中は軍需物資の輸送基地となり、戦後は進駐軍に接収され、飛行場もつくられた。
晴海埠頭の接収解除は1953(昭和28)年から段階的に始まった。晴海線の建設が始まり、晴海橋りょうも含めて1957(昭和32)年に開通した。晴海埠頭の接収は1958(昭和33)年に全面解除となっている。この年、国鉄と港湾局の境界だった越中島が越中島駅(現・越中島貨物駅)として正式開業した。
港湾局専用線は東京における物流の主役となっていく。最盛期は1967(昭和42)年頃で、年間170万トンの輸送量があった。深川線と晴海線は最大1日22往復の貨物列車を設定していた。しかしその後はトラック輸送が台頭。スト権ストや運賃値上げなどによって国鉄の信頼が揺らぎ、鉄道貨物輸送が衰退していく。加えて、都市ガスの原料が石炭から液化天然ガスに変わったことで、深川線の石炭輸送が終了した。
貨物列車のしくみも変わり、1984(昭和59)年の国鉄ダイヤ改正を契機にコンテナ輸送が普及。港湾局専用線は沿線の事業所と車扱い貨車をやり取りするしくみだったため、コンテナ輸送に対応しない支線の廃止が始まる。年間輸送量は20万トン程度に落ち込んだ。1986(昭和61)年に国鉄汐留駅の廃止が決まり、これに呼応して1985(昭和60)年に芝浦臨港線が廃止された。1986(昭和61)年に深川線を廃止。最後まで残った晴海線も1989(平成元)年に廃止された。
晴海橋りょうから「旧晴海鉄道橋」そして「春海橋公園遊歩道」へ
港湾局専用線の線路はほとんど撤去されてしまい、一部の線路が公園のモニュメントとして残るだけになった。そんな中、晴海橋りょうは残った。ただし、もとから遊歩道にしようという目的はなく、撤去する予算がなかったからだった。
土木・建設情報サイト「R2SJ」に掲載された、東京都港湾局開発調整担当部長水飼和典氏のインタビューによると、「貨物鉄道としては1989年に廃線となりました。その後は撤去の話もありましたが、予算の関係などもあり、閉鎖して立入禁止にしている状態でした」とのこと。背の高い船舶の航行もなく、残置しても差し支えなかったのかもしれない。
東京新聞の2014年9月9日付「TOKYO発 記憶の架け橋 昭和の物流支えた『晴海橋梁』」によると、「全長約六十メートルの橋を遊歩道にしては、という声も住民らから上がっているが、撤去するにせよ、活用するにせよ多額の費用が予想される。管轄する東京都港湾局の担当者は『解体も整備も、どちらも今は検討していない』」とのことだった。
その後、2017年に東京都が策定した「海上公園ビジョン」にて、「かつての港湾物流で大きな役割を果たしていた臨港鉄道の一部である旧晴海鉄道橋を補修・遊歩道化し、東京港の歴史を伝える新たなランドマークとしての活用を図ります」と明記された。ここで「晴海橋りょう」は「旧晴海鉄道橋」という呼び方に変わった。
前出の「R2SJ」によれば、「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の前後から、有効活用の声が出てきた」「港湾局では東京都港湾審議会の下に『海上公園を中心とした水と緑のあり方検討部会』を設置し、付近の公園(春海橋公園、晴海臨海公園、晴海ふ頭公園、豊洲ぐるり公園)の一体的な活用等を盛り込んだ『海上公園ビジョン』を平成29年5月に策定しました」とのこと。「春海橋公園の拡張計画として、水辺沿いの各公園を繋げる動線の役割を担う」としている。
戦前に東京オリンピック関連の万博会場候補地だった晴海に、2020年東京オリンピック・パラリンピック(開催は2021年)をきっかけとして晴海橋りょうの整備計画が浮上したとは、不思議な巡り合わせを感じる。オリンピック・パラリンビックには間に合わなかったものの、晴海地区や豊洲地区の開発によって春海橋(道路橋)の歩道も通行量が増えているため、観光目的だけでなく実用的な通行施設としても効果が期待されている。
晴海橋りょうは日本で初めて「ローゼ桁橋」を採用した歴史的な鉄道遺産である。ローゼ桁橋はアーチ部分と下部の補剛桁(水平な桁)の両方で荷重による変形を防ぐ方式。遊歩道化にあたり、アーチ部の塗装色は当時の姿に近づけつつ、江東区の「都市景観専門委員会」の意見も踏まえ、決定したという。ガラス床も設置し、当時の歴史、技術を体験できるようにデザインされた。都心からも近く、新しい廃線活用事例としても注目される。





