2番目に注目されたのは20時31分で、注目度71.5%。追い詰められた恋川春町が切腹するシーンだ。
国元へ戻る朋誠堂喜三二の盛大な送別会が吉原の駿河屋で開かれた夜、春町は自宅で1人白装束に身を包んでいた。三方に置かれた短刀が淡い光を放ち、室内には張り詰めた空気が充満している。春町はせき払いをすると短刀を手に取り、三方を腰の後ろへと押しやり、「はあ、はあ、ふう」と息を整え覚悟を固めると、自らの腹に一気に短刀を突き立てた。
耕書堂に戻った蔦重(横浜流星)は、てい(橋本愛)から春町を見かけたと知らされる。蔦重がいぶかしんでいると、誰かが激しく戸板を叩いた。「蔦重! 蔦重!」声の主は喜三二である。喜三二の切羽詰まった様子から、ただ事ではないことが容易に察せられる。蔦重が戸を開けるや否や、喜三二は蔦重にしなだれかかり肩をつかむ。「春町が…腹、切ったって…」喜三二は声を震わせてそう言った。まさかの知らせに、ていは目を見開いて顔を引きつらせる。そして蔦重は、その場でただぼう然と立ち尽くした。
「絶望感がマシマシの描写すごかった」
このシーンは、戯作者・恋川春町の最期に視聴者ががく然となったと考えられる。
筆を折り、国元へ戻ることになった喜三ニだったが、蔦重は一計を案じ、仲間たちと協力して喜三ニに作家を続けさせることに成功した。また、春町のために新しい人別を駿河屋市右衛門(高橋克実)に用意してもらい、うまく難局を乗り切ったと確信していたところ、突然知らされた悲報に大きな衝撃を受ける。小田新之助(井之脇海)や田沼意次など、親しい人を次々と失ってきた蔦重だが、今回は平秩東作と春町を亡くしてしまった。松平定信による統制がますます厳しくなる中、蔦重は徐々に追い詰められていく。
SNSでは「介錯もなしに切腹するなんて、その思い切りのよさ…」「信義さまから逐電の話が出たときに春町先生どうなるか察したけど信じたくなかった」「まあさんからしたら春町が腹きるなんて信じられんよな…絶望感がマシマシの描写すごかった」と春町の壮絶な最期が話題となった。
春町の切腹の原因となった遺作『鸚鵡返文武二道』は、1789(寛政元)年正月に恋川春町作・北尾政美(高島豪志)画の黄表紙作品。前年1788(天明8)年に出版された朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』の後編という位置づけであり、また幕府老中・松平定信が著した教論書『鸚鵡言』を風刺した内容となっている。平安時代・醍醐天皇の時代を舞台に文武両道を奨励する帝と補佐役である菅秀才による改革が、庶民の誤解によって滑稽な騒動へと発展する様子を描いている。
春町は戯作者として活躍する一方、1787(天明7)年に年寄本役に就任している。年寄は藩主を補佐し、政治・行政・司法・軍事など幅広い分野を統括する役職で、本役は臨時や加役ではなく正式な役職として任ぜられていることを意味する。つまり春町は藩の正式な年寄ということだ。春町の石高は120石となっている。1石は約1両で1両は現在の価値でおよそ10万円なので、春町の年収は約1,200万円。禄高だけで見るとかなりの高給取りといえる。