2024年7月、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード2024のヒルクライムで、アウディ・タイプ52”シュネルスポルトワーゲン(Schnellsportwagen)”が走った。企画開発されていながら、実現せずに終わっていたはずのスーパースポーツカーが90年の歳月を経て、復活したときだった。
【画像】数年にわたる作業を経て2023年に復活したタイプ52シュネルシュポルトワーゲンと、ベースとなったPワーゲン(写真16点)
タイプ52は90年以上前に、フェルディナント・ポルシェ博士がアウトウニオンAGのために構想したスーパースポーツカーである。
ミッレミリアやル・マン24時間など長距離レース出場も視野に入っていただろうが、正しくそれは、ドイツ全土に向けて延伸が始まっていたアウトバーンで真価が発揮されたに違いない、ハイスピードクルーザーであった。実際、アウトバーンの建設が加速して以降、小型大衆車は少ない燃料での高速走行を可能とするように、また高性能車は高い巡航速度を競うかのように、空力開発が急速に進んでいった。
博士の夢
タイプ52に採用されたメカニズムは超一級だった。ポルシェ博士が設計したミドシップ、スーパーチャージャー付きV16エンジン採用のグランプリカー、Pワーゲン(Pはポルシェの意、ポルシェ開発番号タイプ22)が直接のベースであったからだ。
ダイムラー・ベンツやNSUなどで、数々の秀作を送り出してきたポルシェ博士は、メーカー勤めでは自由に活動ができないとの考えから、1931年4月、シュトゥットガルトでDr.Ing.hc F.Porsche GmbH, Konstruktionen und Beratungen fur Motoren und Fahrzeugbau(自動車と車両の設計とコンサルティングサービス:以下、ポルシェ事務所と表記)を設立した。独立にあたって資金を提供したのは、義理の息子であるアントン・ピエヒ弁護士とアドルフ・ローゼンベルガーで、以前の職場で知り合っていたカール・ラーベやエルヴィン・コメンダ、フランツ・クサーヴァー・ライムシュピース、それに子息のフェリー・ポルシェが参加した。言わずと知れたポルシェ356や911開発の中核となる人々だ。また、アントン・ピエヒの息子が、後にポルシェ911Sや917、アウディではクワトロの計画を指揮したことで知られるフェルディナント・ピエヒである。
1931年に設立されたポルシェ事務所の本業は、主に乗用車設計の委託だが、不況で車の販売が激減していたドイツでは注文が充分に集まらなかったことから、レーシングカーを開発の子会社、Hochleistungs Motor GmbH(高性能エンジン設計会社)を設立した。ポルシェ博士の事業目的(夢)は、小型大衆車、農業用トラクター、そしてレーシングカーを設計することであり、さっそく1934年から発効する新規定に準拠したグランプリカーの設計に着手した。
新規定ではマシン本体の重量を750kg以下(ドライバー、燃料、潤滑油、冷却水、タイヤを除く)に定めており、ポルシェ事務所は、徹底的に軽量化した車体のミドシップに、スーパーチャージャー付きV型16気筒エンジンを搭載するという進歩的な構想を練り上げた。
ポルシェはこの計画を具現化すべく、独立後に初の顧客となったヴァンダラー社の役員を経由して、アウトウニオンに持ち込んだ。アウトウニオンは1932年に、アウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーの4社が合併して設立された組織であり、新会社の設立を広くアピールする手段を求めていた重役会がポルシェの計画を承認したこことで、アウトウニオンのグランプリレース計画が動き始めた。
ドイツのナショナルカラーになったシルバーに塗られたPワーゲンには、シルバーフィッシュのニックネームが冠され、ダイムラー・ベンツ・シルバーアローとともにグランプリレースを席巻することになる。
GPカーから派生したアウトバーン・クルーザー
ポルシェ設計事務所において、タイプ52の最初の設計スケッチが最初に描かれたのは1933年末と言われている。構想では、Pワーゲンの最初期型であるタイプAのV型16気筒4.4リッターエンジンをベースとしながら、GPカーがメタノール主体燃料を使用するのに対して、市販ガソリンの使用を可能にすべく、圧縮比を下げ、過給の回転速度を抑えるなどのデ・チューンをおこない、約200ps/3650rpm、436Nm/2350rpmとしていた。200km/hでの走行を想定した流線型のクーペボディは、中央に運転席を置き、左右にパセンジャーシートを配した3座席型で、車両総重量1750kgの総重量を目指した。
しかしながら、タイプ52の計画は1935年に中止が決まり、実車化されることはなく、一部の人たちを除いて忘れ去られてしまった…。
余談ながら、センターステアリングのミドシップ3座席型スーパースポーツカーとしては、1992年にマクラーレンから放たれたゴードン・マーレー設計のマクラーレンF1があるが、タイプ52の例は構想のみとはいえマクラーレンに先立つ半世紀以上前のことだった。
90年の歳月を経て実現へ
計画発足から約90年後、アウディ・トラディションは実車化に向けて行動を起こした。保存されていた文書や設計図面、スケッチを使って、この手の複製では世界一と評される英国のヒストリックカー・スペシャリスト、クロスウェイト&ガードナ一社にタイプ52の製作を依頼したのである。同社は過去にもアウディ・トラディションからの依頼を受け、タイプCやタイプD、速度記録会用ストリームライナーなど、実走複製車の製作を手掛けたことがあり、数年にわたる作業を経て2023年にタイプ52シュネルシュポルトワーゲンが完成した。
資料探しは困難を極めたことは想像にあまりある。第二次世界大戦中、アウトウニオン・シルバーフィッシュやダイムラー・ベンツ・シルバーアローの実車や資料は、戦禍を逃れて後世に記録として残すため、ドイツや周辺諸国の廃坑などに密かに隠された。戦いが終わってみると、Pワーゲンの製作を担当したホルヒ社があったツヴィッカウなどの地域は、旧ソ連領(東ドイツ) となったことで、実車ほか資料は東欧諸国に消え、マシンは研究後に解体され、多くのファイルや写真は、散逸・消失したと伝えられていた。”鉄のカーテン向こう側” でPワーゲンがパーツとして発見された例もあったが、東側に消えたマシンの行方は分からずじまいで現在に至っている。東西ドイツ統一後には保管されていた資料が発見・回収されたとの情報もあるが、すべてが発見されたわけではないだろう。
タイプ52についても、ごく少数の資料しか残っていなかったとされ、ポルシェ博士らによる構想の未知なる部分は、時代考証と推測によって全体像を完成させていったという。たとえば、機構面ではホイールベースは、残されていた原案では駆動系の配列に矛盾があることから、僅かに延長する必要があったという。また車室内についても、現存するPワーゲンやアウトウニオンの生産型乗用車(トップモデルのホルヒだろうか)を参考に、内装のデザインや色と生地を選び、車体色もPワーゲンと同じ"セルロース・シルバー”としている。
エンジンについてはあえてオリジナルの設計から逸脱させている。4.4リッターエンジンを白紙から復刻することは避け、以前、クロスウェイト&ガードナー社が複製を手掛けて実績のある、1936年Pワーゲン・タイプC用の6005cc仕様を搭載した。このため、燃料はタイプCと同じメタノール50%に無鉛ガソリン40%とトルエン10%を混合した特製油で、4500rpmから520PS (382kW)を発揮するという。こうして現代のスーパースポーツカーと比べても遜色のない、高性能車に仕上がった。これは筆者の私見だが、もしタイプ52が1936年頃に生産化に移されたとすれば、Pワーゲンは6リッターに進化しているため、T52も同じ排気量になるのは理にかなったものだろう。
シュトゥック父子
グッドウッドのお披露目でステアリングを握ったドライバーのひとりが、ドイツのレジェンド・ドライバーであるハンス・ヨアヒム・"シュトリーツェル”・シュトゥックだ。彼の父であるハンス・シュトゥックは1930年代にPワーゲンを駆り、グランプリレースを走り、欧州ヒルクライム選手権ではチャンピオンの座に着いていた"シルバーフィッシュ使い”である。よって1930年代半ばにタイプ52が完成していたのなら、シュトゥック父がステアリングを握ったことだろう。父がなし得なかった試走を子息が引き継ぎ、歴史が繋がった。
新しい技術の開発と歴史活動は表裏一体
蛇足ながら私見を記させていただきたい。アウディは少なからぬ予算を投じて複数のPワーゲンやタイプ52ほか、失われた過去のモデルを復刻製作している。これはアウディに限ったことではなく、今年のグッドウッドではメルセデス・ベンツも博物館に展示してあった濃赤の1924年の2リッター・タルガフローリオ出場車を完璧にレストアして疾走させている。
こうしたメーカーによる歴史活動について、1980年代後半に私がおこなった海外メーカーへの取材の際、「先端技術の開発と、自社の歴史活動は表裏一体」だという考えがあることがはっきりと見えた経験がある。私が接した人々の多くが”クルマ知識レベル”が高いと強く感じた。あるとき、某ドイツメーカー訪問時の会食で隣に座った上席役員に、なぜ皆さんは自動車の歴史に詳しいのかと問うてみたところ、「(会社の舵を取る立場の人間が)知らないこと自体がおかしい。無関心であっては職務が遂行できない」と、簡単で明確に答えてくれたことがあった。
さらに、「(自動車を造っている、自動車を売っている)プロとして当たり前の知識であり、糧となっている自動車が歩んだ道の概路、自社の歩みを知っていることは常識であり、無知であったなら同業社間の競争はもちろん、(ブランドが確立されていない)歴史の浅い国からの追い上げに負ける。また、技術者の発想を助ける教養になる…」そう話を続けた。多額の予算を組み、資料部門やミュージアム施設の充実、イベント参加などの活動をおこなっている理由を明確に語ったことは印象的であった。
アウディ・トラディションにとっては、大戦の間に失われてしまった歴史上の重要なマイルストーンを復刻することは、先人の考えと対時することによって習得し、自らの歩みを後世に見える形で残すために必須な行動なのであろう。私はそこに執念のような想いを感じた。
このタイプ52のプレスキットを読みながら、2007年冬にモールスハイムのブガッティ本社に同社とヴェイロンの取材に行ったとき、私の脳裏をよぎった戯言を思い出した。「フエルディナント・ピエヒの肝いりで誕生した16気筒エンジン搭載のヴェイロンは、もしかすると、ポルシェ博士が発想したスーパースポーツカー(タイプ52)の現代版なのか」と…。
文:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.) 写真:アウディ・トラディション、MCLアーカイブス.
Words: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Photography: Audi Tradition, MCL Archives