1950年代から日本製の乗用車や商用車は、世界各国に輸出を開始した。言葉では理解していたつもりでも、私たちの知らない土地で使われている国産旧車を目にすると、それは感慨深いものがある。この連載「アメリカ発! ニッポン旧車の楽しみ方」が北アメリカ大陸を飛び出して、初めてヨーロッパからリポートをお届けすることになった。北欧の国のひとつ、フィンランドの日本旧車オーナーたちの様子を紹介する。
【 アメリカ発! ニッポン旧車の楽しみ方 フィンランド・ スペシャル Vol.3】
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フィンランドでは、国内に唯一ある自動車工場のバルメット社が、ドイツ車を中心とした契約生産をしているだけだ。この国が独自の自動車メーカーを持たなかった理由は、その特殊な歴史を知ると見えてくる。
西欧と東欧の接点という地理にあったフィンランドは、中世以来、西にあったスウェーデン王国と東のロシア帝国との間で、領土取り合いの対象にされてきた。そのため国内政治が安定しにくく、近代になっても自動車など重工業を発展させる余裕がなかった。
そんなフィンランドにおけるクルマの歴史は、富豪コルピバーラ一族から始まる。1917年ロシア領だったフィンランドは、第1次世界大戦に誘発されこの年に起きたロシア革命の混乱に乗じて、国の独立を宣言。するとコルピバーラ一族は早速自動車輸入を開始すべく、コルピバーラ社を設立して、米フォード、スチュードベーカー、仏シトロエン、独ボルクバルト、チェコ・シュコダなどの輸入を開始した。
第2次世界大戦終戦の1945年、ドイツとともに敗戦国となったフィンランドには、ソ連(ロシア)に対する戦争賠償を通じて、東欧各国のクルマが次々と国内へ流入することとなった。
64年になるとコルピバーラは日本からトヨタ車の輸入を開始。最初に試験輸入されたのがティアラ(コロナ)だった。しかし、見た目が独オペルに似すぎているとの理由で却下。実際に商業販売され成功を収めたのはクラウンだった。日本から遠方でありながらも、貨物船を借りきって大量輸送する方法で輸送費を抑えた。こうして低コストで輸入されたトヨタ車は、自国車を持たないフィンランドで、たちまち庶民へと普及したのだった。強い財力の背景にトヨタ車の輸入を一手に引き受けていたコルピバーラ社は、1995年にトヨタの現地法人、トヨタアウトフィンランドに引き継がれた。今日までの100年間、きちんと記録された歴史を伝えるべく、トヨタ社内に博物館が設置されている。今回訪れたその博物館は、歴史的車種のコレクションが保存展示され、コルピバーラ社の歴史が写真とともに記されていたのが印象的だった。
一方、日産車を輸入したアロイヒトマ社は、1934年に米ドッジを輸入するために設立されたアウトケスクス社に端を発する。アウトケスクスは1962年にヨーロッパで初めてダットサンを輸入。713台のブルーバードがフィンランドに到着した。1969年に他の会社を併合してアロイヒトマ社と名前を変えた後、2006年になって日産ノルディックヨーロッパが輸入を引き継いだ。
アロイヒトマはヨーロッパ仕様のスカイラインの輸入も試みたようだ。「2400GT」と呼ばれたハコスカは、ニッサンブランドで販売された唯一の車種。4ドア車のみが輸入され、1972年から1974年の間に38台がフィンランド国内で登録された。後継のケンメリは「ダットサン240KGT」と呼ばれ、2ドアHTのみ30台が輸入された。
アロイヒトマは1982年にスバルの輸入も開始。マツダはハカアウト社が1965年に4台持ち込んだのを皮切りに、1967年から大規模に輸入され始めた。三菱はヘルカマ社が1976年にランサーを輸入したのが始まり。ホンダはベルネル社によって1968年にN360とN600が輸入されたと記録が残っている。
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