西岡恭蔵とKURO、世界旅行をしながら生み出した楽曲をたどる

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年1月の特集は「西岡恭蔵」。2021年11月、小学館から書籍『プカプカ 西岡恭蔵伝』という長編伝記が発売された。その著者、ノンフィクション作家・中部博を迎え、今年ソロデビュー50周年を迎える西岡恭蔵の軌跡をたどる。パート3は、作詞家・KUROと西岡恭蔵夫妻の曲づくりの軌跡をたどっていく。

田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは西岡恭蔵さん「サーカスにはピエロが」。1972年7月発売、ソロの1枚目のアルバム『ディランにて』の中に入っておりました。恭蔵さんが生前最も大切にしたという1曲です。

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サーカスにはピエロが / 西岡恭蔵

田家:今週は、KUROさんと恭蔵さん夫婦の関係についてあらためて光を当ててみたいと思うんですけど、先週最後に紹介したアルバム『Yoh-Sollo』の話が出たときに中部さんが「いい加減にしろ」って言いたくなるぐらい仲の良さがにじみ出ているアルバムだったという話がありました(笑)。

中部:この2人は、一緒に生活をして子どもに恵まれて……ということがあるんですけど、KUROさんが作詞を始めるんですよね。いろいろな人に詞を提供するようになっていくんですけど、2人で詞を作るようになっていく。それで大儲けしちゃうんです。なぜかと言うと、矢沢永吉さんの歌の詞を手がけるようになったから。34~35曲はあって、西岡恭蔵の名前なんですけど、ほとんどKUROさんと一緒に作っているんですね。ある時期はKUROさんが1人で作詞していた可能性もあるんです。それで、たぶん当時の宝くじの一等ぐらい儲かったんだと思うんですよ。前後賞がついたかは分かりませんけども(笑)。で、これをどう使うかというときに、この2人がかっこいいなと思うのは家を買うわけでもなく、車を買うわけでもなく、2人で旅行を始めちゃんうんですね。しかも、1ヶ月とか2ヶ月ぐらいの世界旅行を始めるんです。

田家:それが今週のテーマでもあります。今日の1曲目は1977年4月発売、4枚目のアルバム『南米旅行』から「南米旅行」。

田家:やっぱりこれは選ばれますね。

中部:ええ。これはですね、2人で中米、メキシコ、カリブ海、あのへんをずっと旅行して、ロサンゼルスで録音するという贅沢なことをやるんです。この夫婦2人の”音楽商会”はお金持ちですからね。大黒字経営をやっているわけですから、海外録音までやってしまう。しかもソー・バッド・レビューと一緒になってやっているわけですから。彼らも自分たちのアルバムを作りに来ているんだけども、今聴いていたホーンの部分は現場で雇ったミュージシャンたちなんですよ。そこに投資しちゃうという、かっこいい夫婦なんですよね。

田家:ミュージシャンは石田長生さん、ギター・山岸潤史さん、ピアノ・国府輝幸さん、ベース・永本忠さん、ドラム・土居正和さん、ボーカル・砂川正和。ソー・バッド・レビューですもんね。

中部:彼らも、自分たちのアルバムのためにロサンゼルスに録音に来ていることもあるんですけど、ロスでスタジオを借りたりミュージシャンを雇ったり、そういうお金を含めて相当な投資を恭蔵さんとKUROさんはしているんだと思うんですよね。

田家:もともとはお金がなかった夫婦ではあるわけですけれども(笑)。2人が結婚したのは1977年12月で、神戸の教会で結婚式を挙げたんですが、新郎新婦の両親は参列してないんですもんね。

中部:してないんです。2人で独立しようという気持ちも強かったんだと思うし、あながち、すごい反対があったということではないとは思うんですけどね。たった2人でこれから生きていく決意表明みたいな結婚式だったらしい。まさにそのままに2人で海外へ旅行に飛び出しちゃうんです。その頃はお子さんがいるんだけど、実家に預けて行っちゃうんです。今で言うと、バックパッカーみたいな旅行をするんですよね。

田家:メキシコ各地、バハマ、ニューオーリンズ、北米。そしてロサンゼルスでアルバムを作る。この旅行記もお読みになっているんでしょう?

中部:これは現物の旅行日記が残っていないんです。ただ、アルバムのライナーノーツに一部出ているんですね。そこをちょっと参考にしたんだけれども、この年はアメリカの建国200年、バイセンテニアルの年なので。たまたま僕も実はその頃アメリカに長い間いたので、そのときの感じがすごく分かるんですよ。アメリカがベトナム戦争で50年代、60年代の輝きを失っちゃうんだけど建国200年というのでパッとこの年だけは明るい年なんです。まだ本格的な不況が来ないから、アメリカが一時期明るさを取り戻したときなんですよね。そこに恭蔵さんたちがいて、そこの空気を吸いながら自由に作った1枚で、こういうことをやっていた人は他にあまりいないんじゃないかと思うんですけどね。

田家:加藤和彦さんと安井かずみさんが、やっぱりそんなふうに世界を旅しながら創作したカップルとしては有名ですけど、このアルバムの旅はその2年ぐらい前ですからね。恭蔵さんたちの方が早いですね。

中部:恭蔵さんたちは、これをシリーズ化していくというか、贅沢な話なんだけど、1~2ヶ月の旅行をしてはアルバム1枚分を作詞作曲して帰ってくるようなことに繋がっていっちゃうんです。すごい旅行好きな夫婦でもあるし、旅先で曲を作っていくというのは1つの方法論でもあるんですよね。

田家:そうでしょうね。今お聴きいただいた「南米旅行」はメキシコのテオティワカン。そのピラミッドを見ながら書いたと本の中で出てきました。

中部:本当にロマンチックなんですよね、この2人は(笑)。やることがロマンチック。

田家:それでは今日の2曲目はアルバム『南米旅行』から「アフリカの月」です。

中部:これは、KUROさんが作詞した最初の歌なんです。元はと言えば、ザ・ディランⅡ(セカンド)をやっていた大塚まさじさんがソロになるときに、KUROさんが作詞をして、恭蔵さんが作曲をして、この曲をプレゼントした。大塚さんのソロデビューに花を添えた曲だったんです。まあ、男歌、女歌という言い方をしていいのかどうか分からないけど、その意味ではKUROさんは男歌を書いてデビューしたことになる。高校生のときからアメリカのポップスを訳して詞を作るのを趣味にしていたので、KUROさんは詞の心を自分の中で育てていた人だったと思います。

田家:大塚まさじさんの1976年3月のアルバム『遠い昔ぼくは・・・』の中に、大塚さんの歌で入っている曲。KUROさんの本名は田中安希子さん。恭蔵さんの少年時代の思い出を歌にしたんだというふうにも……。

中部:恭蔵さんから聞いていたことなんでしょうね。つまり、恭蔵さんのおじいさんが経験した海の話が、恭蔵さんの口を継いでKUROさんに伝わっているんだと思うんです。

田家:先週話に出た、西岡新松さん。

中部:はい。海外航路の船員だったおじいさんの思い出話に恭蔵さんは相当影響受けていて、それをシーンとして話したり、こういうことがあったとKUROさんに話していたと思いますね。

田家:KUROさんが以前から詞を書く人だったということは、取材をされてわかった?

中部:そうですね。恭蔵さんがKUROさんのプロフィールを書いているんですけど、その中に高校時代にも(作詞を)やっていたことが紹介されているんですね。詞を作ることはKUROさんの天職だったんじゃないかと、恭蔵さんは書いていますね。

田家:でもそれは、恭蔵さんと出会ったから花開いた? あるいは、恭蔵さんと出会わなかったらこういう形になっていないと?

中部:逆に言うと、恭蔵さんの周りの音楽家の方たちから訊くと、詞と曲を作るのは相当つらくて、小説を1本書くのと同じくらい大変なことなので、恭蔵さんも実はKUROさんが詞を書くようになって、相当楽になったんじゃないかとおっしゃっていましたよ。

田家:なるほどね。中部さんが選ばれた3曲目、アルバム『南米旅行』の中から、「今日はまるで日曜日」。

中部:これは、恭蔵さんが作曲した歌じゃなくて、中川イサトさんが作曲をして、「KINTA」というクレジットになっていますけど上田賢一さんが作詞した曲なんですね。他の人の曲としては、細野さんに次いでこの歌を恭蔵さんは好きで、『南米旅行』にも入れているし、ベストアルバムにも入っているぐらいなので、自他共に認める好きな歌の内の1つだったと思います。

田家:『南米旅行』は10曲入っておりまして、7曲が旅行中に書かれたもので、この「今日はまるで日曜日」と「KUROのサンバ」と「アフリカの月」の3曲は旅行中に書いた曲ではないんですね。

中部:まあ、旅行も忙しかったんだと思うけど(笑)。だけど、旅行中に(曲づくりを)よくやりますよね。

田家:これも、本の中に書いてあったんですけど、最初の海外旅行というのは、結婚から2年目の南太平洋のニューカレドニアとニューヘブリデスに行っている。これは2人の2年遅れの新婚旅行か、休暇旅行だった。その時は具体的に音楽活動に反映されていないというふうにも。

中部:そうなんですよ。だからあらためて意図的に旅行して曲を作ることを始めた、一種の生産活動であるわけですよね。

田家:2人で旅をしながら曲を書こうやってことで旅をしていったんですね。当時の為替レートが260円で、決して安くない(笑)。

中部:それは安くないですよね。30ドルぐらいの安いホテルに泊まっただけで1万円近くになっちゃうわけですから。それができるのはこの2人の財力があるという、貯金通帳にお金がいっぱい入っていたんじゃないですかね(笑)。

田家:なるほどね。で、レコーディングを仕切ったのが先週も名前が出ていた阿部登さん。「春一番」を福岡風太さん、恭蔵さんたちとともに始めて、ザ・ディランⅡのマネージャーだった方。

中部:そうなんですよね。これも、行きあたりばったりの話で、スタジオもロサンゼルスに行ってから探して決めているんですよ。ミュージシャンなんかも人づてに聞いて決めているという、非常に大胆な……阿部さんって大胆な人ですよね。

田家:途中でお金が足りなくなったみたいな話も書かれてました。

中部:そうなんですよ。あとギターを忘れたって話もあって、日本に取りに行った人がいるという(笑)。相当な出費ですよ、たぶん。当時トリオレコードはこれから打って出るという感じのレコード会社じゃないですか。

田家:決して大きな会社ではなかったですしね。

中部:だから、これは恭蔵さんたちが自分たち(のお金で)でやろうと決めてやったんだと思います。こういうお金の使い方が恭蔵さんとKUROさんらしいという……音楽に使っていっちゃうということじゃないですかね。

田家:で、帰国した恭蔵さんが作ったバンドが「西岡恭蔵とカリブの嵐」。

中部:これも恭蔵さんはサウンドが好きなのとコーラスが好きなのがあって、いつか自分好みのバンドを作りたいってずっと思っていたと思うんです。旅シリーズが終わった後に、カリブの嵐と共にライブアルバムに挑戦しているんです。ミュージシャンとしては自分のサウンドが出来たら、それをライブでやってみる、ライブアルバムを作るのは1つの夢らしいですね。

田家:そのライブアルバムからお聴きいただきます。1977年9月9日、京都磔磔でのライブアルバムから、西岡恭蔵とカリブの嵐「アンナ」。

田家:これを選ばれているのは?

中部:これは、恭蔵さんってビートルズ好きだったんだなという感じがすごくするんですよね(笑)。自分のライブで、ベストで選んだので、恭蔵さんの意欲作だったと思いますよ。ライブ(録音)は、やっぱり怖いんじゃないですかね。やり直しがきかないし、それに挑戦したという感じがものすごくある意欲作だと思います。

田家:これだけのメンバー、ドラム・林敏明さん、ベース・山本正明さん、キーボード・難波正司さん、ピアノ・国府輝幸さん、ギター・洪栄龍さん。当時の第一人者ばかりですもんね。

中部:あと、お願いしたからやってくれるっていう感じの人でもなくて、恭蔵さんに説得力があったということですね。この音楽に参加しないかということなんじゃないですかね、こういうレジェンドが集まってくるということは。

田家:しかも関東と関西と両方集まっていますしね。

中部:そこはやっぱり、こういう音楽をやりたいという恭蔵さんの主張がはっきりしていたし、それが受け入れられていたんだと思います。

田家:そういう意味では関西フォークの流れにもいないわけですし、はっぴいえんどから始まっている東京のシティミュージックの流れだけでもないところに彼はいるんですよね。

中部:そうなんです。それだから、知っている人だけが知っている個性的な存在になって、恭蔵さんのファンの集まる温かい洞穴の中に入っていた感じの音楽になっちゃうんだと思うのですけどね。

田家:このバンドもマスターが恭蔵さんだった。

中部:おそらくそうだと思います。このメンバーを引き連れて、小さいライブハウスでもやっているんですよ。(お店側は)到底ギャランティができないから、バンマス(である恭蔵さん)が払っていたということでしょうね。

田家:なるほどね。で、冒頭でも話が出ましたけれども、恭蔵さん夫婦の経済的な裏付けになっていたことの1つが矢沢さんの曲の作詞で、1976年の矢沢さんのアルバム『A DAY』と1977年の『ドアを開けろ』に詞を提供しています。この中には矢沢さんの代表曲が入っていますからね。『A DAY』には「トラベリン・バス」、『ドアを開けろ』の中には「黒く塗りつぶせ」と「バーボン人生」「あの娘と暮らせない」。

中部:(2人には)ヒット曲を作詞してしまう力があった。しかも、プロとしてなんですよね。自分のやりたい音楽とかというわけではなくて、この人のイメージでこういう歌ということに見事に応えるわけです。これはプロの仕事ですよね。

田家:矢沢さんと恭蔵さんの接点もここにあったんだなと。

中部:そうなんです。これも最初は不思議だったんです。関西の人たちに訊くと、西岡恭蔵さんが矢沢永吉さんの詞を書いているというのは、同姓同名の違う人なんじゃないかという説すらあったんです。同じ人だと思えなかったらしいですね。

田家:でもまあ、これまでの『南米旅行』の話とか、恭蔵さんとKUROさんの旅の仕方をたどっていると、「トラベリン・バス」とか「バーボン人生」というのは、お2人の歌でもあるわけでしょうし。

中部:それはもう、間違いなく材料があるわけですよね。それは矢沢さんと同じセンスというか、同じ気持ちだったんじゃないですか。

田家:この本を読むと、それまで何で矢沢に書いてるんだと思われた方も、なるほどなって納得されるでしょうね。

中部:アーティスト(作詞家・作曲家)として同じ事務所に所属していたとか、僕自身もそれを聞いたときに驚きました。そういう関係だったんだと。

田家:で、生き方が似ているところもあった。

中部:でしょうね。尊敬し合う存在だったみたいですね。だから、西岡さんは矢沢さんのことを非常に尊敬している。

田家:次の曲は、先週話に出た1979年のアルバム『Yoh-Sollo』から中部さんが選ばれております、「最後の手紙」。

最後の手紙 / 西岡恭蔵

田家:先週も話に出た『Yoh-Sollo』の中の曲を選ばれておりますが。

中部:これは、スペインとか地中海とかモロッコとかカナリア諸島とかへ行って作ったアルバムの中から選んだんですけど、僕の趣味でもあるんだけど、小林旭さんが歌ったらいいなと思われるような非常に歌謡曲っぽい歌ですよね。ここまでKUROさんと西岡さんの”芸風”というのが広がってきているんですよね。どんどんポピュラーミュージックになっていくという。これは、歌謡曲として今でも誰かカバーしてくれたらいいなと思うぐらいです。

田家:そう言われれば、恭蔵さんが高い声を張り上げたときには小林旭さんみたいなところがありますね。

中部:仲間内の冗談では「フォーク界の小林旭」と言われていたらしいですよ(笑)。

田家:『Yoh-Sollo』は1978年12月から1979年1月まで1ヶ月半の旅の中で、「最後の手紙」は1979年1月8日カナリア諸島で書かれた。これも、旅行記をお読みになって?

中部:ええ。これは旅行日記が現存していて、西岡さんの字で読めたわけですけども、本当に事細かに書いてあるんです、1日何をしたか、何があったかということが。だから、メモ魔でもありますよね、西岡さんって。

田家:その旅行記はどこにあったんですか?

中部:ご実家にたまたま残されていたんです。一部の日記もたまたま残されていて。

田家:日記をお読みになって(本書を)書いているというのが、これが4週目、5週目の感動的要素でもありますね。

中部:残っていた日記は4~5年間で、全部残っているわけではなかったんですけど。記録魔ですよ。わりと事細かに自分の気持ちも、何が起きたかも書いているんです、西岡さんって。

田家:それを事細かに読み直して、再構成して取材されたのが、中部さんがお書きになった今回の本です。

燃えるキングストン / 西岡恭蔵

田家:6枚目のアルバム『New York to Jamaica』から「燃えるキングストン」。Get Up, Stand Up、ボブ・マーリーですね、まさに。

中部:この頃、日本語をブルースやロックにのせるという1つの動きがグッと高まっていって、その流れの中でワールドミュージックに興味を持つという流れも1つあったんですよね。その中で、やっぱりレゲエが、なんと言っても日本のアーティストをすごく刺激したところはあると思う。で、恭蔵さんの場合は、レゲエ音楽を追って、また旅に出るんですよ。プエルトリコなんかは、行ってみたら全然違っていた、何かちょっとつらいみたいなことも日記に書いてあるんですけど(笑)。で、脱出するようにジャマイカに行って、ジャマイカも最初はなんか変だななんて言っているんだけども、リゾート地へ行って落ち着くと、音楽をものすごく楽しんでいますね。そこでラスタファリという彼らの地元の宗教も学んだりして、ボブ・マーリーの音楽と哲学に傾倒していく状態がこの旅行だったんですね。

田家:なるほどね。キングストンはジャマイカの首都なわけで、この曲のサブタイトルに「1980年夏のジャマイカに捧げる」と書いてありますが、この旅行は1980年の7月22日から1ヶ月間、ニューヨーク、プエルトリコ、ジャマイカ、LA……。この旅行記に「いつかニューヨークで4人で暮らせることを願って」と書いてあったんですね?

中部:書いてありましたね。だから、やっぱりどこか他の場所へ行って暮らしたいと思っていたんでしょうね。

田家:それを読んだとき、どう思われました?

中部:もっと刺激を受けてアウトプットしたい気持ちがもちろんあるんだろうし、それから日本の中では息苦しいところが常に自由を求めるアーティストにはあると思うんですよね。やっぱり別の場所で暮らしてみたかったということは恭蔵さんも思っていたんだと思います。

田家:もうこのときは、お子さんが2人いらしたわけですもんね。

中部:それでもこの2人は、もしチャンスがあったら行っちゃうタイプだと思いますけどね。

田家:そうでしょうね。来週、再来週にお話するようなことがなければ、そういう生活になったのかもしれないのですが……。これも、中部さんの旅行記の感想で、旅行記に歌づくりのことを書いていない、とありました

中部:いつ歌を作ったかということを今までの旅行記は書いていたんですけど、不思議なことにこの時は全然書いてないんですよ。いつどこで作ったかは分からないんですよね、このアルバム『New York to Jamaica』に関して言えば。

田家:でもその街のことはいろいろ書いてあったりするんだ。プエルトリコやニューヨークはどうだという。

中部:そうです。ジャマイカでリゾートホテルのレストランをはしごして、そこのバンドを聴いて回るという楽しみもしているんだけど、それで影響を受けて、こういうバンドをやろうって思ったりもするんですよ。だから影響を受けているんだけど、どこで歌を作ったかは書いていない。

田家:このアルバムのライナーはKUROさんが書いてたんですね。

中部:そうなんです。KUROさんが非常に積極的になって自分でお書きになっている。やっぱり世界の現実、ボブ・マーリーは政治的な現実の中でも生きてきた人だから、現実に対して何か言いたいことが大きくなっていった。世界の戦争の問題とか、抑圧の問題とか、差別の問題に(恭蔵さんもKUROさんも)言いたいことが多くなっていった時期なんじゃないかなと思います。

田家:自分たちの歌のことよりも、世の中のことの方に関心が移っていった、そちらの関心の方が強くなっていったと?

中部:レゲエを通じてそうなっていったと思いますね。恭蔵さんはもともとベトナム反戦運動に参加してた人ですから。

田家:それも本の最初の方にお書きになっていますね。

中部:世界を見て回ったときに敏感に反応したということなんだと思うんですよね。

田家:恭蔵さんとKUROさんのバランスが変わってきたことはあったんですかね。

中部:ええ。この先の話なんですけど、恭蔵さんが体調を崩していくというか、おそらく精神的な病(やまい)だったと思うんですね。

田家:その話は、曲の後にお聞きしましょうかね。中部さんが今日最後に選ばれた曲は、『New York to Jamaica』の中の「YELLOW MOON」です。

YELLOW MOON / 西岡恭蔵

田家:ロマンチックないい曲ですね。

中部:50年代、60年代のポピュラーミュージックって感じがしていいんですけど、KUROさんが詞を書くと「月」がすごく多くなってくるんですね。

田家:たしかに。「アフリカの月」とか。

中部:それから「ブルー・ムーン・ラ・パルマ」という歌もありますから、月の歌が多くなってくるんだけど、西岡さんも安心して月のイメージにのっている感じがしますよね。

田家:なるほどね。『New York to Jamaica』は、3回目の長期旅行で生まれていて、どんなアルバムだと思われますか?

中部:これは、ロックならロック、ジャズならジャズ、ポピュラーミュージックならポピュラーミュージックみたいにものすごくはっきりして、いろいろなチャレンジが1つ形になっていったアルバムだと思うんですよね。旅行をしてアルバムを作るのはこのアルバムで終わって、三部作で完結ということになるんですね。

田家:でも、1971年にザ・ディランⅡで始まって、ちょうど10年間。すごい10年ですよね。

中部:すごいと思います。普通のペースじゃないですよね。

田家:大阪から東京に来て、プロになってデビューして……。その後に3回、海外長期旅行をしている。こういうキャリアの人は70年代の過ごし方の中でも他にいないだろうなというのが今回のあらためての発見でもありますね。

中部:自由な旅行をしていますよ。日本語のガイドブックもちゃんとなかった時代ですから、現地に行ってからホテルを探したりしている旅行ですから、それ自体が冒険的要素を含んでいておもしろかったんだと思うんです。そういうKUROさんと恭蔵さんが持っている好奇心、それから行動力が全開に出ていたんじゃないですかね、この10年間は。

左から中部博、田家秀樹

田家:で、そういう10年間の後に待っていたのが、来週以降の話になるわけですね。

中部:そうなんです。つらい話と言えば、つらい話なんですけれども(KUROさんに支えられ)音楽の力とか仲間たちと一緒に、恭蔵さんは生きていこうとするんです。

田家:その話は、また来週お願いします。ありがとうございました。

中部:どうもありがとうございました。

田家:「J-POP LEGEND FORUM 西岡恭蔵」、今年がソロデビュー50周年、西岡恭蔵さんの軌跡を小学館から発売になった本『プカプカ 西岡恭蔵伝』の著者、ノンフィクション作家・中部博さんをゲストにたどり直してみようという5週間。今週は3週目です。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

70年代の若者の憧れとか夢とか生き方の1つの特徴に、日本を脱出するというのがあったのではないでしょうか。これは60年代からももちろんあって、小田実さんの『何でも見てやろう』という本がベストセラーになったりしたのですが、あの本は高度成長に向かう日本の若者たちが「さあ、世界を見に行こう」というとても前向きな海外志向だった。70年代の若者たちの日本脱出は、そういう健康的なものではなかったような気がしますね。日本に幻滅したとか、日本にいたくないとか、俺にはもっと違う何かがあるのではないかみたいな、日本を捨てるみたいな気分があった。中島みゆきさんの「永遠の嘘をついてくれ」はまさにそういう歌でもあるんです。はっぴいえんどの3枚目のアルバムの最後が「さよならアメリカ さよならニッポン」で、僕らには帰るところがない、無国籍なんだということで旅に出ていく。寄る辺ないまま旅に出ていった、そういう旅人志向、吟遊詩人願望が多かったのではないかと思うんです。

それを国内で形にしたのが、作詞家の岡本おさみさんで、海外を旅したのが加藤和彦さんや安井かずみさんの夫婦だったわけですが、恭蔵さん夫婦は1番吟遊詩人的でロマンチックだったんじゃないかなというのが今週の感想ですね。バックパッカー的、ヒッピー的、加藤和彦さん安井かずみさん的なセレブな旅ではなくて、現地の空気に入り込んで、現地のミュージシャンと一緒に音を出して音楽を楽しんで、そこで作品を書くという、理想的な吟遊詩人。矢沢永吉さんの「トラベリン・バス」は、恭蔵さんの1つの旅の考え方でもあったんでしょうね。激動の70年代をそんなふうに激変しながら走り抜けた2人、そのお2人がどうなっていったのかというのが来週のテーマでもあります。世の中が思いがけない方向に行きました。その中で2人は何を考えたんでしょうか。

書籍『プカプカ 西岡恭蔵伝』表紙

<INFORMATION>

田家秀樹

1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。

https://takehideki.jimdo.com

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月 21:00-22:00

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