【第一工業製薬】坂本隆司会長兼社長が語る「再建の原点」

京都工場を見て涙…

 ―― 富士銀行(現みずほ銀行)の行員だった坂本さんが、2001年から第一工業製薬に来た理由は何だったのですか。

 坂本 実は、当社にとって2001年というのは、112年の歴史の中でどん底にありました。というのも、バブル期に当時の経営者が財テクを選択し、バブルがはじけると同時に大損を招いてしまった。それで、巨額の損失を計上し、処理に四半世紀も引きずることになってしまったんですね。

 日本は、失われた20年とか30年と言われましたが、当社もこの損失の始末に長い歳月を費やしたわけです。

 ―― 一番経営が厳しかった時期に転身したわけですね。

 坂本 その頃、わたしは当時の富士銀行で資産運用の仕事をしていまして、50歳を過ぎた頃でしたので、自分の第2の人生をどうしたらいいのか考えている時期でした。そんな時に弊社から声が掛かりまして、忘れもしない2001年4月11日に面接を受けに東京から京都へ来たわけです。

 すると38分の面談で話が進み、役員待遇で来てくださいと。役員報酬はこれくらいですがお越しいただけますかと言われて、わたしは5月31日付で銀行を退職し、6月から着任することになりました。

 ところが、着任早々、当時の社長が「坂本さん、申し訳ありません」と。何だろうと思ったら、わたしが面接した4月から会社に来るまでの2カ月の間に取締役会があって、「経営状況が厳しいので役員報酬は3割カットです」と(笑)。「それを受け入れられないのであればお帰りいただいて……」と言われたのですが、銀行を辞めたばかりですからね。

 ですから、本当にえらい会社に入ってしまったなと思いましたよ(笑)。

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 ―― それは大変なスタートでしたね。再建が始まった時の担当は何だったんですか。

 坂本 わたしは戦略部門、管理部門の取締役で採用されまして、最初は何もわかりませんから、初日は秘書室でいろいろな話を聞きました。それで最初は現場周りで、各工場に行ったりして、何が問題になっているのかを探っていきました。

 実は前年の2000年に京都工場を閉鎖しており、工場や研究所など8千坪の土地を売却していました。何とか本社の土地建物だけは残したんですが、資金繰りのためにお金になりそうなものは全部手放してしまったんです。

 京都市内で8千坪といったら相当な広さですよ。京都工場のあった場所は、当時京都市内からどこからでも見える大きな煙突があったんです。そこを売却したので、建物が崩され、更地になっていきますよね。その光景がわたしは悔しくて、本当に涙が出てきましたよ。

 ―― それがある意味で再建の原点になっているんですね。

 坂本 そうなんです。その時、わたしは敷地に入って、取り壊された工場のレンガを1ブロック持って帰ってきました。

 この時わたしが思ったのは、この会社を必ず再建する。そして、いつかこの土地の面積を取り返してやると。ですから、今もレンガを見ると、あの当時のことが思い出されますよね。

 先に結論を言ってしまいますが、その後、われわれは三重県四日市市で土地を買い、岡山県で土地を買い、合計7万6千坪の土地を取り返しました。7万6千坪というのは、甲子園球場の約6倍です。四日市はもともと三菱化学さんと合弁でやっていた四日市合成という会社を、2011年に100%子会社にしました。岡山では林原さんが保有する土地を取得したのです。

 岡山の土地は今後、ライフサイエンス事業の拠点にする予定で、ようやく成長投資ができるようなってきたところです。

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