ピンク・フロイド初来日の衝撃とは? 「箱根アフロディーテ」目撃者が語る真相

ピンク・フロイド初来日公演「箱根アフロディーテ」の新発見映像を収録した日本独自企画『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』がリリースされた。半世紀を経過した今も、このフェスが伝説として語り継がれる理由とは? 歴史的ステージを目撃した保科好宏に振り返ってもらった。さらに記事の後半では、同じく箱根のライブに衝撃を受けた岡井大二(四人囃子)との対談記事もお届けする。

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「箱根アフロディーテでピンク・フロイドが来日するよ! 」。最初にそのニュースを聞いたのは、東京の音楽関係の友人からの電話だった。まだインターネットも携帯電話も無かった1971年、洋楽関係の情報は音楽誌かラジオの音楽番組だけが頼りだった時代、長野に住んでいた僕にとって、チケットの手配もしてくれたこの友人の存在は実に大きかった。

当時、高校2年生だった僕はこの年、4月に生まれて初めて観たイギリスのロック・バンド、フリーのライヴに衝撃を受けてロックの魅力に取り憑かれ、7月にグランド・ファンク・レイルロードを雷雨の後楽園球場で体験し、それから僅か3週間後に行ったのが、箱根アフロディーテだった。(翌9月にはレッド・ツェッペリンの初来日公演も体験!)

ただ、まだ17歳になったばかりの僕にとってピンク・フロイドの音楽は、正直少し難しいというか、決して親しみ易いものではなかった。と言うのも6学年上の兄の影響でビートルズを始めとする洋楽全般に親しんで育ったとはいえ、ポップス〜ロックの音楽スタイルが著しい進化を遂げて多様化した激動の60年代後半、サイケデリック時代を経てプログレッシヴ・ロックと呼ばれるようになったピンク・フロイドの音楽は、それまでのロックとは異質に感じられたからだ。と言うのも一般的なロック/ポップは、耳馴染みの良いヴォーカル・メロディを軽快なビート、リズムに乗せて聴かせるスタイルが主流だったのに対し、ピンク・フロイドの場合、彼らの音楽に身を任せ、深く入り込むことでそのサウンドの世界観を楽しむという、クラシック音楽的な接し方を求めるようなところがあったからだ。それまで分かり易いハード・ロック的勢いや乗り、ヒット・シングルを一緒に歌って楽しむことに慣れていた10代のロック少年には最初、少し敷居が高く感じられたのも当然かもしれない。

もちろん、前年の1970年にリリースされた『原子心母』が全英チャートNo.1となり、キング・クリムゾンやエマーソン・レイク&パーマー等と共に、新時代を牽引する話題のプログレッシヴ・ロック・バンドとして各方面から注目を浴びる存在というのは知っていた。ただ熱心なロック・ファン以外には大ヒット曲があるわけでもない彼らの存在は、一般的にはまだマイナーで、共演した1910フルーツガム・カンパニーの方が知名度では上だったかもしれない。またもう一つの理由として、欧米ではヒッピー〜サイケ・カルチャーの中で彼らの音楽が支持されたのは、マリファナやLSDなどドラッグと親和性が高かったからで、ほぼそういったカルチャーとは無縁だった一般的な日本人には当初、彼らの魅力はなかなかストレートに理解されなかったのではないかと思う。

それはともかく、1971年に箱根アフロディーテが開催された事は、海外のロック・アーティストを招いての野外ロック・フェスティバルとしては日本初、その後のフジロックに先駆けること26年も前だった事を考えると歴史的なイベントだったのは疑いようもない。それまで僕が野外フェスについて知っていたことと言えば、その1年前の夏に日本で公開された映画『ウッドストック』(開催は69年)を観て、60年代ユース・カルチャーの祭典のような自由すぎるロック・フェスの知識しかなかった高校生には、ジャズやフォーク系の日本の出演者が多かった箱根アフロディーテは、期待していたロック・フェスと違ったのは確かだが、とにかくあの場でピンク・フロイドを観られたことが全てだった。

大自然がもたらした奇跡のライヴ体験

さて、僕が箱根アフロディーテに行くことに関しては、最初から何も迷いは無かった。前記したようにフリーでロックのライヴの魅力に身も心もヤラレてしまった僕は、海外のロック・バンドを体験する事が最大の楽しみであり生き甲斐だった。それを金銭面で支えてくれた親には感謝しかないが、当時はまだロック系バンドの来日は1〜2カ月に一度程度だったので、何とか追いかけることが出来たのだと思う。

そんな僕にとっては3番目の海外ロック・バンド体験となったピンク・フロイドのステージは、新たな知覚の扉を開けてくれるような静かな興奮に包まれるもので、全てが新鮮で刺激的、それまでとは全く質の違う感動を覚えた特別な体験だった。何よりもまず箱根の野外会場という非日常性、そしてまだ長野新幹線のない時代、夜行急行で長野から上野経由で新宿に向かい、そこからバス・ツアー(全部で10数台ほどだったと思う)で初めて箱根に向かうというのもワクワクする新鮮な体験だった。

〈上〉筆者所有の「箱根アフロディーテ」チケット〈下〉『50周年記念盤』 特典の復刻チケット

さすがに半世紀も前の事ゆえ、記憶も朧げで細部までは思い出せない事も多いが、入り口で配っていた虫刺され用のキンカンを手に会場に入ったことは覚えている。会場となった場所は、成蹊学園の寮がある芦ノ湖畔の約6万坪の乗風台だったことは後で知ったのだが、ステージがなだらかな斜面の上にあったことははっきりと覚えている。中に入ってからは出来るだけステージに近い正面の場所を目掛けて小走りで向かい、そのまま谷側のセカンド・ステージには一度も行くことなくピンク・フロイドの出番を待っていた。

僕が観た8月6日(初日)のメイン・ステージでは、1910フルーツガム・カンパニーとバフィ・セントメリーを観たことは覚えているのだが、出演したはずの日本人アーティストのことは、モップス以外はほとんど記憶に無い。その訳は恐らく、僕の記憶力の問題もあるかもしれないが、あまりにピンク・フロイドのステージが桁外れに鮮烈過ぎて、その記憶を消し去ってしまったからだと思う。当時のフライヤーには、どちらのステージに出たか分からないものの、トワエ・モア、尾崎紀世彦、かぐや姫、ハプニングス・フォー、成毛滋&つのだひろの名前があり、谷側のステージに出演した渡辺貞夫、山下洋輔、菊池雅章等、錚々たるジャズ・ミュージシャンの名前を見ることが出来るのだが、そのラインナップからしても、箱根アフロディーテをロック・フェスと呼ぶのは少し無理があるのではないかと今更ながら思う。

余談ながら、僕は行けなかったのだが箱根アフロディーテに対抗するように8月8日から2日間、近くの精進湖で日本のロック・バンドによる「精進湖ロックーン」というフェスが開催されていた。両方に出演したモップスとハプニングス・フォー+1の他、頭脳警察、裸のラリーズ、エム、スピード・グルー&シンキ、安全バンド、カルメン・マキ&ブルース・クリエイション、トゥー・マッチ、ブラインド・バード、ガロ等が顔を揃えたこちらの方が、間違いなくロック・フェスだったと思う。

それはともかくピンク・フロイドのステージは、始まる前のPAのチェックからして鳥の鳴き声を流すなど、自然環境に溶け込んだ音響で観客の期待感が高まる中、「原子心母」で始まった。恐らくスタート時間は夕方、5時半頃だったと思うが、まだ太陽の明るさが残る中でも音が出た瞬間、その透明感溢れる凛としたサウンドに会場の空気が瞬時に入れ替わったように感じられた。印象的だったのは最初、呆気に取られるように聴いていた観客が、20分を超える「原子心母」が終わったと同時に我に返るように大歓声と拍手が会場全体から沸き起こった事で、そこには心からの感動と驚きがあったのは間違いない。

そして1曲目が終わる頃には陽も翳り始め、風も強くなり始めた中で始まった『ウマグマ』からの「ユージン、斧に気をつけろ」と「太陽讃歌」の2曲は、更に会場全体を幻想的な空間に誘うのに相応しい選曲だった。加えて今度はまるでドライアイスとスモークを合わせたような本物の霧が徐々に山の上から降りて来てステージ全体を包み込み、当時はまだ未発表だった名曲「エコーズ」を演奏する頃には、高さのあるステージが一時的に雲の上に浮いているように見える瞬間もあった。その光景はとても現実とは思えないもので、ピンク・フロイドの音楽と自然の気象現象が織りなす、幻想的という言葉では物足りない奇跡のような場面に遭遇出来たことは、数多いコンサート体験でも忘れられない特別な思い出だ。

そしてそのまま最後の曲「神秘」が終わった時、あまりの寒さに身体が震えているのに気付いて現実に引き戻されたのだが、高原での野外フェスなど初めてだった僕は、半袖のシャツ一枚で出掛けた事を大いに後悔したのも今では良い思い出だ。

『50周年記念盤』発掘映像と貴重資料

さて、その箱根アフロディーテから50周年を記念して今回リリースされる『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』は、何と言ってもその伝説のフェスで初来日したピンク・フロイドの、新発掘映像を追加したBlu-rayが話題だ。羽田空港到着時から記者会見、箱根のステージの模様も収録したドキュメンタリー映像は、過去にテレビ埼玉で放映されたものと内容は同じだが(※)、今回はそのオリジナルの16mmフィルムの発見を機に、長い年月をかけてフィルムの汚れやノイズを取り除き、最新技術で一コマずつデジタル化したことで別物と言っていいほど鮮明なカラー映像が甦ったのが注目される。まるで当時の記憶がモノクロからいきなりカラーになったような驚きをBlu-rayで味わえるはずだ。加えて機材の運搬やステージの設営風景をピンク・フロイドの機材スタッフ2人の仕事ぶりを中心に追った3分間の映像資料「Scott & Watts」も、今では貴重な当時の記録となっている。

※過去にテレビ埼玉で放送されたライブ映像の音源は、アフロディーテのものではない別のライヴ音源に差し替えられていたが、『50周年記念盤』では実際のアフロディーテにおける演奏が用いられている。

更にもう一つの特典として、『追憶の”箱根アフロディーテ1971”』とタイトルされたデジタル・ブックレットにアクセスし、日本初の音楽フェスを巡る当時の詳細な記録を読むことが出来る。こちらは実際にアフロディーテに関わった亀渕昭信さん他、ニッポン放送の制作スタッフの方々の裏話、立川直樹さんや伊藤政則さんの箱根体験記、また箱根の後、1日だけ行なった大阪フェスティバル・ホールでのコンサートを観た音楽関係者の体験談、当時PAを担当した日比野音響の代表の話など、興味深い読み物が満載となっている。

この夏、箱根アフロディーテを体験した幸運な人もそうで無い人も、50周年の節目に『原子心母』と伝説のフェスの映像を観ながら、日本に於けるロック・コンサート元年と言ってもいい1971年に想いを馳せてみてはいかがだろうか。

箱根アフロディーテを巡る対談 岡井大二×保科好宏

箱根アフロディーテの映像は、ピンク・フロイドが2016年に発表した全27枚組のボックスセット『The Early Years1965-1972』で初めて公式収録された(こちらはブートで出回っていたものと同画質)。ここからお届けする対談はそのとき収録されたもの。実際に箱根でピンク・フロイドを体験した岡井大二(四人囃子)と、前掲の記事を執筆した保科好宏が当時の想い出を語り合った。

※この対談はレコード・コレクターズ2016年12月号に掲載された記事を一部再編集したものです。

保科:箱根アフロディーテがあった71年は、日本に於けるロック元年といえる年だったよね。4月にフリー、6月にシカゴ、7月にグランド・ファンク・レイルロード、9月にレッド・ツェッペリンと、ひと月に1組くらいロック・バンドが来日するようになって。

岡井:キョードー東京の”ロック・カーニバル”シリーズが70年12月のジョン・メイオールから始まって続々来日し始めたから期待はしていたけど、まだピンク・フロイドの来日はずっと先だろうと勝手に思ってた。ヒット曲がたくさんあって誰もが親しめるタイプのバンドじゃないからね。

保科:ロックの野外フェスティヴァルも、ピンク・フロイドの箱根が日本初だったんじゃないかな。

岡井:フロイドの関東での公演は箱根だけだったからね。

保科:当日はバスで行ったの?

岡井:僕は小田急線で行った。高校の同級生と3人で。

保科:僕は新宿から会場直行のバス・ツアーに参加して。高校2年生だったから大二は高3だね。

岡井:じゃあ翌年、四人囃子を長野に呼んでくれた時は高校3年?

保科:そう。アフロディーテから半年後くらいに東京で観た四人囃子が、フロイドの完璧なカバーを演っているのを観て、その巧さに感激してね。ところで四人囃子で箱根に行ったのは大二だけ?

岡井:そう(※)。で、これはとんでもないバンドだから、みんな絶対見なきゃダメだと。翌日、東京に戻ってすぐ四人囃子のマネージャーだった兄とメンバーに大阪に観に行くべきだと力説してね。月曜にメンバー全員で新幹線に乗ってフェスティバルホールに向かったと(笑)。ちょうど四人囃子になってすぐの頃だね。それで帰りは興奮状態のまま夜行電車で帰ったんだけど、観るまではプログレっぽいものに興味が無かったメンバーもこの音楽は良いかもと共通認が生まれて。この時に四人囃子の方向性が決まったというか。

※RSJ編注:これは記憶違いで、実際は坂下秀実(Key)も友人と現地にいた。

保科:ちょうど日本では来日した年の1月に『原子心母』が出て。

岡井:アフロディーテでは「エコーズ」(次作『おせっかい』収録)を演奏してるけど、当時は未発表の新曲でね。今考えるとよくあの人たちが1年ごとにアルバムを出せたよね(笑)。時代なんだね。あの頃って回転が早いんだな。

保科:もう45年も前だけど、アフロディーテで覚えていることは?

岡井:それが日本の諸先輩アーティストには悪いんだけど、ひたすらピンク・フロイドが出てくるのをいい場所確保して待ってたんでメイン・ステージの1910フルーツガム・カンパニーとバフィ・セント・メリーしか覚えてない。

保科:僕も同じ(笑)。日本のバンドはサブステージに出ていたようだけど、一度も行かなかったし。

岡井:フルーツガム・カンパニーは音楽がテレビ・タレントだなあという感じに聞こえちゃって。レコードは大好きだけど。バフィ・セントメリーは弾き語りで、クオリティ高かったよね。何かやっぱり違うなって感じで(笑)。

保科:そうだね。「サークル・ゲーム」もヒットしてたしね。多分、日本のアーティストも同じステージで観てるんだけど、あまりにフロイドが凄すぎたせいか他の記憶が飛んじゃったみたいな(笑)。

アフロディーテは「奇跡のような出来事」

岡井:箱根はどの辺りで観てた?

保科:正面の比較的前の方で。斜面の上の方にあったステージを少し見上げるような感じだったね。

岡井:僕も同じ辺りかな。今聴けばどうか分からないけど、音量と音質に関しては何の不満もなかったね。ちょうど良かったというか。

保科:音圧が凄かったわけではないけど包み込まれるような感じで。

岡井:今では当たり前の低音がズシンとくることもなかったけど、聴いたことがないレンジが出てる感じがしたね(笑)。

保科:演った曲は覚えてる?

岡井:頭の曲が「アトム・ハート・マザー」(原子心母)だったという記憶はある。ピンク・フロイドが突然ステージに出てきて、チューニング始めただけでオーッて盛り上がって(笑)。僕らがいた所から彼らが持ってきたWEMのPAシステムを前座の演奏中に組み上げていくのが見えて。1910フルーツガム・カンパニーとバフィ・セント・メリーは、日本側で用意したあまり良くない音響でやったんだけどね。で、その頃からPAのチェックに鳥の声を流したんだけどそれがナチュラルで屋外の山の中で馴染みがいい。何か知らない世界が始まるんだとそれだけで興奮しちゃって。

※RSJ編注:「箱根アフロディーテ」メインステージでの音響機材は、ピンク・フロイドが持ち込んだWEMのPA機材に加えて、日本のヒビノ電気音響株式会社(現:ヒビノ株式会社)が貸し出したShureのトーンゾイレ型スピーカー40台を併せて使用。このことが日本でのステージ音響の発展に大きな転機をもたらすことになった。詳しくは『50周年記念盤』デジタル・ブックレット掲載の日比野宏明(ヒビノ株式会社取締役会長)インタビューにて。

保科:あとフロイドが始まると日が暮れ始めて、急に寒くなった記憶がある。山の上から霧が降りて来て自然のスモーク状態になって。

岡井:確かにフロイドのときは肌寒かったね。あの霧は自然とは思えないほど、出来過ぎなくらい幻想的で。すぐそこで演奏してるのに姿をさえぎるくらい霧が出て。今回の映像(『The Early Years1965-1972』収録のもの)ではあまり霧がかかってないから、2日目のものかも。テレビ埼玉のクレジットがあるから放送されたものなんだろうけど。

保科:ニック・メイスンが最近のインタヴューで、アフロディーテは素晴らしい想い出だと語っているのを読んで思い出したんだけど、84年くらいに友人に会いに行ったロンドンのスタジオに箱根アフロディーテのポスターが飾ってあったから驚いて理由を訊いたら、そこがたまたまニック・メイスンのスタジオでね。同じフロアにヒプノシスのオフィスもあって。

岡井:本当にそういう人間関係なんだね。やっぱり観客の向こうに芦ノ湖が見下ろせる箱根のステージは気持ち良かっただろうし、本人達も満足いく演奏だったんだろうね。それで日本の印象が良かったから、すぐ半年後に再来日したんだろうし、アフロディーテの評判でフロイドの日本での人気と評価が一気に高まったんだろうね。

保科:あの環境であのサウンドだもの、フロイドにとっても最高だっただろうし、観客もその世界に否応なく引き込まれるよね。ただただ圧倒されて。

岡井:想像外の世界をやられちゃったからね。時代もあるよね。ある意味、演奏力は別にしても、やらかすことは前衛じゃない?

保科:実際、集まった人数ほど当時『原子心母』も売れてたかどうか。多分、売れてなかったと思う。

岡井:ほとんど話題先行だよね、あの頃のロック・ミュージックっていうものは。だってストーンズがあの頃売れてないんだから(笑)。

保科:だから今考えると、アフロディーテが開催されたのは奇跡のような出来事だったんだろうね。

岡井:全員興奮のるつぼだったよね。いろんな要素が噛み合って。時代やロケーションもあるけど気持ち良かった。でも呆気にとられたというのが一番の印象じゃないかな、ピンク・フロイドの初来日ライブっていうのは(笑)。

ピンク・フロイド 『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』

特設サイト:https://www.110107.com/pinkfloyd_AHM50th