コレが日本のレースシーン? 開設から85年。日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」をご存知だろうか? Vol.1

「多摩川スピードウェイ」が、日本初の常設サーキットとして完成したのは、今から85年前となる1936(昭和11)年。こけら落としのレースとして開催されたのが「第1回全日本自動車競争大会」だった。

 日本で初めて自動車レースが開催されたのは大正時代の1900年代初頭にまで遡る。もちろん今のレースのように形式が整ったものではなかった。本格的なレースが開催されたのは、1922(大正11)年、洲崎(現・東京都江東区東陽町周辺)の特設コースで開かれた「第一回自動車大競争」となるが、警察の介入により同時走行は危険と判断され、単走のタイムトライアル形式に変更されたという。

 ちなみに世界初の自動車レースとされるパリ~ボルドー~パリが開催されたのは1895(明治28)年 、ル・マン市郊外の公道サーキットで世界初のグランプリレースが開催されたのは1906(明治39)年だった。

 1922(大正11)年の「第一回自動車大競争」で幕を開けた日本の本格的なレースは、その都度特設コースが作られ開催されてきたが、関係者は恒久的なレース施設の必要性を痛感。常設サーキットの開設を模索する。そしてついに1936(昭和11)年に日本初の常設サーキットとなる「多摩川サーキット」が完成する。

 多摩川スピードウェイの開設に貢献したのは、1922年の自動車レース開催に向けて中心的な役割を果たした藤本軍次氏と報知新聞社、そして土地の所有者でもあり資金の半分ほどを負担した東急電鉄(当時の東京横浜電鉄)だった。藤本氏は幼少期に渡米し、ハイヤー事業や自動車の修理販売業を学び、自動車レース興行にも精通していた。日本へ帰国すると、アメリカでの経験から日本でのレース開催を実現しようと奔走することとなったのだ。

 参加車両は幅広く、アメリカ車ではフォード、シボレー、クライスラー、英国車ではMG、ベントレー、フランスのブガッティなどが名を連ねた。外国車のノックダウン生産が中心だった日本の自動車産業が、政府からの国産化奨励を受ける中、国産車対決に注目は集まった。日産(ダットサン)が勝利するものと思われたが、2台出場したオオタが、10周で競われた国産小型車クラスで1着、2着となり、30周の商工大臣カップでは、1着と3着を占める。5台を出場させた日産は、国産小型で3位、商工大臣カップで2位に入るのが精一杯だった。

 日本の自動車史において決して企業規模が大きくもなく、短命に終わったオオタの名前が長く語り継がれているのは、このときの活躍が一因となっているといえるのではないだろうか。

 3万人の観客が集まった第1回の成功を受け、「全日本自動車競争大會」は38年の4月17日の第4回まで、多摩川スピードウェイで開催されるが、その38年を最後に4輪レースが開催されることはなくなってしまう。1937年に盧溝橋事件が勃発、1941年には太平洋戦争が始まり、戦争へ一直線に歩みを進めていく時代の流れにあってはサーキットでレースを楽しむ余裕は残されていなかった。戦後しばらくは2輪レースで利用されたこともあったが、やがて利用頻度が下がり、自然閉鎖への道のりをたどっていった。

 敷地は野球場に改装され、サーキットの面影は、わずかにコンクリート製の観客席が土手の一部に残されているにすぎない。しかしながら、その存在は、黎明期の日本自動車産業やその後のモータリゼーションの発展、モータースポーツ文化の醸成など、さまざまな分野における礎となったといえるだろう。

現在もホンダコレクションホールが所蔵している、本田宗一郎氏が修行時に製作に携わった1924年式カーチス号や、三井財閥の総帥三井高公氏が当時所有していた1926年ブガッティT35Cやなど【写真10枚】

日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」【2】に続く