雨の富士スピードウェイで、本格的なレースデビュー! プライベーターの急先鋒になり、果敢にワークス勢に挑みかかる|10/50勝を挙げた、最強GT-Rプライベーター Vol.2

【10/50を挙げた、最強GT-Rプライベーター Vol.2】

【1】から続く

 あるとき、「本格的にレースを行いたい」と父に申し出た。父は多くを語らず、GT‐Rを買い与えている。納車されると、これをすぐに港区三田にある日産プリンス東京販売のスポーツコーナーに持ち込み、チューニングを依頼。ここでGT‐Rをレース仕様にしたが、マシンの製作とメンテナンスを担当したのは、後に久保田と生涯の友になる青木輝久だ。プリンス系のメカニックだったが、仕事の枠を超えて久保田をバックアップ。ビギナーの久保田にとっては頼りになる兄貴だった。

 デビュー戦は5月3日のJAFグランプリを予定していたが、チーフメカニックの木村敏郎から出場はかなわないと伝えられる。格式の高いレースだから、レース経験がないドライバーには出場権が与えられなかったのだ。そこで6月下旬に富士スピードウェイで開催される「富士ゴールデンレース第2戦」をデビュー戦とし、作業を進めた。そして冒頭のレース展開になる。

 このとき、速いプライベーターがいるな、と思ったのが後に一緒にレースをすることになる杉崎直司です。彼は人気漫画家の赤塚不二夫さんのチームZENYからトヨタ1600GTで出場していましたが、優勝した黒澤元治さんから唯一ラップ遅れにされませんでした。本当に速かったし、雨でもうまかったですね。すごく才能があったし、気が合ったから、PMC・Sに誘いました。GT‐Rに乗り換えた後、一緒に耐久レースを走ったこともあります。

 プライベーターは大変ですが、楽しかったですね。みんなが応援してくれました。スクラップブックに、ボクが出場したレースの記事や写真を貼り、スポンサー回りもしました。かなりの持ち出しになってたから大変でした。でも、そのうちに腕が認められ、ワークスチームを率いる青地康雄監督からパーツなどをもらえるようになったのです」

 久保田洋史は、スカイラインGT‐R50勝のうち8勝をあげたと発表されたが、後にデータが改められ、10勝が定説となっている。GT‐Rは多くのドライバーがステアリングを握っているが、ワークスドライバーを含め、二ケタ勝利を記録したのは久保田だけだ。

 ちなみにGT‐Rでの記念すべき初勝利は70年1月15日の「富士フレッシュマンレース」である。フェアレディ2000を駆る柳田春人に続いて予選2番手で決勝に進み、総合2位、クラス1位でチェッカーを受けた。GT‐Rのデビュー戦から数えて12戦目のレースで、7人目のウイナーとなっている。

 杉崎直司とコンビを組み、耐久レースを戦うのは、50勝がかかった71年12月の「富士ツーリスト・トロフィーレース」からだ。このレース、久保田と杉崎は日産とマツダのワークス勢を振り切り、九分九厘勝利を手にしていた。しかし、勝利の女神は微笑まず、逆に試練と叱責を与えたのである。

「後に独立してブラスワンアオキを創設する青木輝久さんには本当にお世話になりました。最初はキャブレターだったから天気や湿気、標高などで調子がコロコロ変わるんです。青木さんは、過去5年分の気圧や温度、湿気などのデータをノート5冊にまとめていて、このマル秘データを駆使してセッティングしてくれました。黒澤元治さんも青木さんを信頼していて、ガンさんがヒーローズレーシングに移籍するとき、青木さんを俺に託してくれないかと僕に相談しに来たくらいでした…。

 黒澤さんにはいろいろなことを教えてもらいました。運転がうまいだけでなく論理的に説明してくれるんです。ボクはずっとブリヂストンのタイヤを使っていました。黒澤さんがBSのタイヤ開発を行っていたこともあり、タイヤをもらえるようになったのです。スリックタイヤの開発テストにも参加させてくれました。1日、朝から晩までテストすると150万円くれたので、資金難にあえいでいたボクとしてはうれしかったですね。勉強にもなりました。

 GT‐Rは難しいクルマでしたね。30度バンクから横山コーナーへと進入し、ここで4速から3速にギアを落とします。ここでシフトミスすると、3ラップしたあたりからギア抜けが始まるんです。ちょっとしたミスが後で手痛いしっぺ返しになるクルマでしたが、こういうミスを黒澤さんや長谷見昌弘さんはしないんです。S20型エンジンは9600回転まで回せますが、集中力が必要なクルマでしたね。レースのときは胃が痛くなり、3日前から恐怖心がわいてきます。でも不思議なことに、エンジンを回すと恐怖心がなくなるんです」と、当時を述懐する。

 久保田は「GT‐Rを乗りこなせれば、どんなクルマでも乗れた」という。それほどテクニックを必要とするクルマだったが、タイムを削っていくのが楽しかったようだ。マツダのロータリー勢とバトルを繰り広げていたときは、リアに「KUBOTA」と書き込んで走っていた。では、もっとも印象深かったレースは、どれだったのだろうか。

「一番悔しかったのは、1972年3月20日の『富士300kmスピードレース』ですね。高橋国光さんがダントツに速く、雨のなかで50勝目のチェッカーを受けた。ボクは2位でフィニッシュしたんだけど、周回遅れにされたんです。自分に腹が立ったね。もうひとつ印象に残っているレースは、50連勝に大手を掛けた71年12月の『富士ツーリスト・トロフィーレース』です。ワークス勢が総崩れとなり、レース終盤にトップに立ちましたが、杉崎直司にチェッカーを受けさせたくて、予定外のピットインをしたんです。ところが残り4周になったときに、杉崎が傷めていたフロントアームが曲がってしまい、修理のためのピットインを余儀なくされました。その間にサバンナに抜かれ、50連勝は夢と消えてしまったのです。監督だった青地課長は激怒していましたよ」

 この後も久保田はGT‐Rでレースを続け、1973年はスペシャルヘッドを架装したサニー1400エクセレントクーペやFJ1300のファルコンでもレースに出場。ところが、父が病に倒れたことでレースの世界から去ることを決意し、74年を最後にサーキットに姿を見せていない。だが、2013年、VICTORY50の内田幸輝とその仲間に請われプリンススカイラインミュウジアムのトークショーに出演した。

40年前と変わらないアグレッシブな走行シーンなど【写真17枚】

 (文中敬称略)

【3】に続く