【倉本聰:富良野風話】捨てる

熱海の災害は衝撃的だった。

 土石流という単なる自然災害だと思っていたものが、2日後のニュースでは、それが盛り土=残土の崩落。しかもその中に産業廃棄物の不法投棄という事態があったと報道され、事は自然災害から一挙に人災へと変わってしまった。

 70年前、戦争が終わり、世の中、資本主義に変わるといわれて、当時小学6年だった僕は担任の先生に聞いたものである。資本主義って何ですか? その時先生の答えは次のようなものだった。

 今までは、物がこわれると修理して使っていたが、これからは直さず、どんどん捨てる、という世の中になる。そうすると、新しいものを作らなくちゃならないから、そこで新しく仕事が増える。雇用が生まれ、みんなが食ってゆける。言い方を変えれば、これからは、こわれないものを作っちゃいけない。こわれやすい物をどんどん作って、こわれたらすぐ捨てる。そして買い換える。これまでは節約が善で消費が悪だったが、これからは消費が善で節約が悪になるんだ。

 まだ小学生だった僕らの頭は、突然のこの180度の思想の転換に、すぐにはとてもついて行けず、目を白黒させ混乱し、世の中がどんどんそのように変わる中、今もって昔のままとり残されてしまっている。

 頭の中に今猶、一つの疑問がある。

 そういう次第で世の中に生まれる大量生産・大量消費・大量廃棄のその廃棄物。それは果たして処理しきれているのか。全てが火をつけると燃えるものなのか。燃えないものは地中に埋めるのか。それとも海に放棄するのか。その費用は一体誰が持つのか。

 たとえば家一軒建て直すとき、前の家をこわしてどこへ捨てるのか。家具はどうするのか。コンクリートはどうするのか。燃えない金属はどうするのか。家を新築して建て直す人が、こわす家の後処理、そしてその費用を真剣に考えているとは、とても思えない。後はその道の業者に任せて程々の金を払い、それで済ませている。

 排泄物から生ゴミ、使い飽きた日用品エトセトラ。それらがその後どうなっていくかについては、いとも無責任に忘れ果てている。大量に廃棄された用済みのそれらは、日本という小さな島国の限られた土地の一体どこに、最後の屍をさらすのだろうか。そう考えると、熱海伊豆山の目につかぬ谷に不法廃棄物が捨てられていたのも別に不思議でない現象に思える。

 こう考えていくと、放射性廃棄物が出ることを判っていながら、それを処理する手段がないことを判っていながら、次々に原発を使って来、未だに誰もその廃棄物を引き取ろうといわない日本人の無責任な行動も、同根であると思わざるを得ない。

 敗戦のあの頃侵入してきた資本主義とは何かを問うて、こわれたら捨てるのだと教えられた少年の日のことをふと思い出す。

【倉本聰:富良野風話】スポーツの祭典