【母の教え】木村皓一・ミキハウスグループ社長

母の口癖は3つ

 わたしは1945年(昭和20年)2月23日、滋賀県彦根市で生まれました。母の名は美喜子。愛知県名古屋市の生まれで、地元の椙山女学園大学に進み、英文学が好きだったと聞いています。母ははっきりした性格で、今はこういう言い方したら怒られるかもしれませんが、男っぽい性格でした。

 わたしが小さい頃に言われたことは、だいたい3つです。

 母は「不言実行」とか「男のくせに」というのが口癖で、男なら黙って実行しろと。だから、われわれ子供たちが言い訳などしようものなら許してくれませんでした。

 ただし、実行しても失敗するのは構わない。何事も行動に移さないと分からないことだらけですので、行動して失敗するのはいいんだよと。でも、同じ失敗を2度続けるのはいけない。「1回失敗したらきちんと学べ」ということで、2回する奴はアホやとよく言っていました。

 父・庄太郎は大正7年生まれ。滋賀大学を卒業して、繊維商社に就職しました。いいものを安く大量につくってアメリカに輸出する仕事です。2歳下の母とは彦根でお見合いし、結婚しました。父が貿易の仕事をしているため、英語が話せる人がいいということで、母とお見合いをしたようです。

 夫婦仲は良かったです。父はとにかく人が良くて、他の人から何か頼まれたら献身的に面倒を見てあげるような人。そんな両親を見て育ったせいか、われわれ子供たちはいずれも離婚せず、平和に過ごしています。

 父は地元の大学を出ているから、友達も地元の人間が多い。でも、母の友達は皆いいところに嫁いでいるようなイメージがありました。遊びに来る時のお土産にチョコレートを持ってきてくれたりして、レベルが高かった印象があります。

 父にしてみれば、自分の青春時代は戦争中です。戦時中のことはあまり聞かされませんでしたが、母から聞いたところ、父は三男坊だったけど、周りは皆戦争に行っているから大変だったようです。両親をはじめ、兄貴の嫁さんや家族皆の面倒を見ないといけないので相当苦労したと思います。

 戦争に行ったわけではありませんが、父は一番多感な時代に苦労したということで、かわいそうだと思います。



自分の決めたことは最後までやり通せ!

 基本的に、母はわたしたちに自分たちがやりたいことをやらせてくれました。

 実は、わたしは3歳でポリオ(小児麻痺)にかかり、小学生の時は車椅子生活を余儀なくされました。右足がずっと悪くて歩けなかったので、母はこれ以上わたしに苦労させたくないと考えて、将来は司法試験でも通らせて安定した生活を送れるようにと。体を鍛えることはおそらく難しいだろうから、わたしに勉強させて、何か特殊な国家資格でも取得してほしかったようです。

 ところが、わたしは自分の足で立てるようになって、普通に生活できればそれでいいと思っていた。だから、勉強することよりも、麻痺した右足にまず筋肉をつけようと考え、毎朝3時に起き、新聞配達を始めました。

 この時も、わたしが自分で言いだしたことですから、母は「絶対に投げ出さず、3年間はちゃんとやらなあかんで。みんなに迷惑がかかるんやから」と言って応援してくれました。

 母はどんなに夜遅くまで起きていても、暑い日も、寒い日も毎朝3時にわたしを起こしてくれました。そこから新聞配達所に行くのですが、わたしは片足が動かないので、いつもケンケンで1時間くらいかけて配達所まで行く。そこから、3時間くらい新聞配達をして、また1時間ほどかけて歩いて、家に戻ってくるのが8時半くらい。学生服に着替えて学校に着く頃にはすでに9時半とか10時です。

 でも、わたしは担任の先生に新聞配達をしていることは伝えていませんでした。だから、先生はよく「木村は遅刻が多いな」と言っていましたし、母はいつも学校にやってきて、先生方に頭を下げてくれました。

 母にしてみれば、わたしが悪いことをして遅刻しているわけではないから、それに関しては理解してくれましたが、わたしは疲れて、授業中はずっと居眠りしている。だから、成績もずっと悪かった。父も母もあの時代にきちんと大学を卒業しているのに、その子供の成績が悪いのですから、両親は内心すごく嫌だったと思います。

 わたしは中学の3年間、何とか新聞配達をやり遂げました。その結果、わたしは無事に歩けるようになり、高校、大学を経て、26歳で独立することになります。

 父は繊維の本場である大阪・本町で繊維の製造卸を営んでいましたので、当然、父は長男であるわたしが仕事を継いでくれるものだと思っていました。ところが、わたしは自分で考えた道を進んでみたかった。この時も母は「父は父、あんたはあんた」と言って、わたしのやりたいようにやらせてくれました。




男子寮の食事係を引き受けてくれた

 母は102歳まで長生きしました。父は55歳で若くして亡くなったので、残りの50年くらいはずっと一人でした。だから、母はさみしかったでしょうね。

 でも、当社には男子寮があり、母は90代の後半まで一人で社員たちの食事の世話をしていました。朝と昼は自宅で済まして、夜は若い子と一緒に食べて、おしゃべりして帰ってくる。一人でいるより楽しかっただろうし、父のいないさみしさをそれで紛らわせていたのかもしれません。

 母はわたしの家の向かいに一人で住んでいて、男子寮からは1キロくらい離れている。だから毎日、寮まで一人で歩いていって、料理をつくって自宅に戻って、また洗い物をしに寮に戻っていく。それを繰り返して1日3往復していました。

 母は大学を卒業するまで名古屋に住んでいたので、言葉は名古屋弁。われわれのように関西弁は全然つかいません。寮にいる時には名古屋弁で普通に会話していましたし、英語ができる人には昔を思い出して英語で会話していました。

 やはり、いくら歳をとっても女なんでしょうね。若い男性が住んでいるから、毎日、お化粧をして寮に出かけていくのを楽しんでいました。寮には10人ぐらい住んでいるのですが、10人分の食事を毎日つくるのですから、それなりに大変だったはずです。それでも若い子たちと会話できるのが楽しいのか、大変そうな素振りは見せませんでした。

 母は好き嫌いのはっきりした性格でしたが、よく人柄を観察し、個人個人のいいところを見てあげていました。人間誰しも100%いい人などいません。ですから、その人のいいところをちゃんと拾い上げたらいいわけで、悪い部分とは付き合わなければいい。自分とは合わないと思ったら、母ははっきり区別する。そんな性格でしたし、その性格はわたしにも確実に受け継がれています。

 わたしが話を聞くと、よく母は「あの子はちゃんと礼儀正しいし、ええねん」とか、「あの子は勝手に冷蔵庫の卵を食べたりするからあかん」とか言っていました。お気に入りの社員には余分に食べ物を置いておくとか、贔屓していましたね。

 でも、たまに母がさみしそうにしている時もある。どうしたのか聞いてみると、社員が結婚して寮を出ていくというので、そういう時は結婚してくれた嬉しさと個人的なさみしさが入り混じった複雑な表情でした。

 それでもたまに寮を出ていった社員から「おばあちゃん、あの時はありがとう。元気してるの?」なんて手紙をもらったりすると、嬉しそうにわたしに話をしてきて、熱心に返事を書いたりしていました。

 おそらくこれが母なりの健康法であり、生き甲斐だったのだと思います。多分、女子寮だったら母は長続きしなかったでしょう。好き嫌いがはっきりしている性格ですから、女子寮だったらトラブルばかりでストレスを抱えていたと思います(笑)。

 様々なことがあったり、起きたりする中で人生を楽しむ。最期まで母は母なりに人生を楽しんでいました。そんな母には感謝しかありません。この場を借りて、「ありがとう」と言いたいと思います。