俳優の田中邦衛さんが3月24日に亡くなった。代表作である国民的ドラマ『北の国から』(81~02年、フジテレビ)で田中さんが演じた主人公の黒板五郎は、北海道・富良野を舞台に、物質文明にあえて背を向け、不器用ながらも子供たちを育て懸命に人間らしく生きていく。その姿は、誰もが“田中邦衛”と“黒板五郎”を自然と重ね合わせてしまうほど一体化したキャラクターになっていた。

そんな世代を超えて視聴者を魅了してきた『北の国から』の演出を担当した杉田成道監督(日本映画放送代表取締役社長)に、田中邦衛さんと『北の国から』の思い出を聞いた――。

田中邦衛さん=『北の国から’89帰郷』より (C)フジテレビジョン

田中邦衛さん=『北の国から’89帰郷』より (C)フジテレビジョン

■最も親しい友人が亡くなった

――田中邦衛さんは、杉田さんにとってどういった存在ですか?

僕にとって邦さんは、戦友って感じかな。僕より10個以上年上なんだけど、あんまり名前で呼んだこともなくて、向こうは僕のことを杉兄(すぎにい)って呼ぶし、僕は邦さんって呼ぶ関係で、友達という感じでしたね。だから最も親しい友人が亡くなったという感じがします。僕もこの歳なので周りの友人が毎年亡くなっていきますから、そういう意味で死は近いものとしてあるので、悲しいということはなくて、喪失感もあまりないですね。ただ、良い出会いだったなって…思うばかりですね。

――撮影中は、邦衛さんとケンカなどもなかったのですか?

いつも冗談ばかり言い合う関係だったので、不思議なもので、ケンカは全くなかったですね。すれ違っちゃって「もう二度とやるもんか!」みたいなことは1回もないし、向こうも1回もなかったんじゃないかなと思います。

――“黒板五郎”というキャラクターはどのように出来上がっていったのでしょうか。

最初、倉本(聰)さんの(脚)本がストイックな人間として描かれていたので、邦さんは「俺と合わない」って随分悩んでいた時期がありましたね。だけど、だんだん本が邦さんに寄っていく感じで…邦さん本来の人物像みたいなものがあって、そっち側に粗忽(そこつ)な五郎像が寄っていったっていう印象でした。どんどん五郎と邦さんがクロスオーバーしていって。純(吉岡秀隆)も螢(中嶋朋子)もそういうところはあったんだけど、邦さんが一番そういう感じがありましたね。そのうち、こっちも邦さんなのか五郎さんなのか分からなくなってきちゃう、そんな感覚がありました(笑)

  • (左から)中嶋朋子、田中邦衛さん、吉岡秀隆=『北の国から2002遺言』より (C)フジテレビジョン

■この大作を1人で背負えるのか…という不安

――連ドラ版が放送された81年当時、田中邦衛さんが主人公で、しかも2クールの大作をやるというのは、周囲の反応としてどういう感じだったのでしょうか。

当時の田中邦衛さんは、どっちかって言うと2番手くらいの俳優のイメージだったので、それでこの大作を1人で背負えるのかっていう感じはもちろんありました。『北の国から』は元々フジテレビがずっと(視聴率)4位で、日枝(久)さん(現 フジ・メディア・ホールディングス取締役相談役)が編成局長のとき、起死回生の一発をやろうと、通常のドラマの倍ぐらいの予算をかけて、しかも半年間放送するという企画で、それを倉本さんにお願いするというようなものでした。だからフジとしては清水の舞台から飛び降りるような覚悟で作った作品だったんです。

最初、主演は高倉健さんだとかいろんな話があって、結局、邦さんになったんだけど、ちょっとあ然とするような、「大丈夫かな?」っていうのは初めからありましたね。しかもこれは1年半の撮影が終わってからの放送だったので、もう本当にどうなるのかっていう感じで、スタートした時点から背負うものが大きかった。こっちも大変だったんだけど、邦さんも大変だったでしょうね。