2011年3月11日に発生した未曾有の災害・東日本大震災から10年。マイナビニュースでは、この震災に様々な形で向き合ってきた人々や番組のキーパーソンにインタビューし、この10年、そしてこれからを考えていく。

フジテレビのドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』(毎週日曜14:00~ ※関東ローカル)では、宮城と福島で、家族や仲間、故郷を失った2人の少年と少女が歩んできた10年を追った『わすれない 僕らが歩んだ震災の10年』を、7日と14日に前・後編で放送する。

前編で、放射能を逃れて転居や別れを繰り返してきた島絵理奈さん(22)に密着した八木里美ディレクター(バンエイト)は、理不尽な運命に翻ろうされてきた彼女をどのように見つめたのか――。

  • 大好きな福島の空を見る島絵理奈さん (C)フジテレビ

    大好きな福島の空を見る島絵理奈さん (C)フジテレビ

■何度も転校…「ここも楽しい所にしちゃおう」

福島県南相馬市・小高区で、小学校卒業目前の12歳のときに被災した絵理奈さんは、福島第一原発の水素爆発による避難指示を受け、避難所や親戚の家を転々とし、事故から1カ月で引っ越しを6回。さらに、福島の二本松から埼玉に引っ越し、原発事故から9回も住まいを替える経験をした。

それでも驚かされるのは、彼女がカメラの前でほとんど涙を見せないこと。発災直後は、友達と引き裂かれる現実の悲しさに泣く姿もあったが、中学生になって埼玉に引っ越すときも、長年放置されて朽ちかけた我が家を見たときも気丈なのは、「すごく性格が穏やかで、優しい子で、のんびりしたタイプなんです。だから、埼玉に行くとなったときも、ものすごい葛藤があるはずなんですけど、それを表に出して親とケンカすることもなく、我慢して受け入れて明るく振る舞っていました」(八木D、以下同)。

当時は、福島から避難してきた子供たちに対して、「放射能がうつる」といった差別が社会問題になっていた頃。そんな中でも、絵理奈さんは「仲良くなって、ここも楽しい所にしちゃおう」と、持ち前の朗らかさで新たな生活に臨んでいた。

「『いろんなところでたくさんいい友達ができて、私は恵まれている。小高でずっと暮らしてたら、こんなにたくさん友達ができなかった』と前向きに捉えているんです。そこが、ただ悲しいだけじゃなくて、番組の救いにもなっているし、彼女が10年という歳月の意味を感じ取っている印象を受けました」

■「震災は人生の一部だから」

番組では、彼女から印象的な言葉が随所で発せられる。「私たちが使っていた電気じゃないのに、なんでそれのために、こんなにいろんなところに行ったりしないといけないのかなって。やっぱり、疲れるかな…」という本音は、東京でその恩恵をリスクなく受けてきた立場として、強く胸に突き刺さる。

また、「震災は人生の一部だから」という受け止め方には、被災地との捉え方のギャップを改めて感じさせられた。

「あの言葉は、彼女にしか言えないんじゃないかなと思いますね。自分の人生の根幹を成す10代が根こそぎなくなるというのは、人の命を失う悲しさというものとはまた別の喪失感が大きいはず。しかも彼女の家は、おじいさんの前の代からずっと小高で由緒ある家で、すごく地元に根づいていたんですよ。だから、そこから出なきゃいけないということは、私たちには本当に想像がつかないくらい、つらいことだと思います」